本論文は18世紀末のイギリス人によるインド論を焦点に、西洋のインド観の変遷を、二つの本質論の交差と乖離という視点から明らかにすることを目指すものである。
E.サイードが『オリエンタリズム』に明らかにしたように、西洋近代においてオリエントをめぐる本質論的な語りは限りなく反復されてきた。それは西洋の自意識とこれに基づく世界認識の構築と追認の過程である。西洋・近代・理性と対を成す負の要素が疎外されては東洋という他者の印のもとに集積されたのである。
その中にあって、インドは特異な位置を占める。インドは、東洋であり他者でありながら、西洋の共感と賞賛の対象ともなってきたからである。そこには「否定」「疎外」だけでは語り得ない複雑な他者理解の過程がある。そして同時に、インドほどに「インドとは何か」という「本質」への問いが強く繰り返される存在もない。世界にとってインドとは、あらゆる「他者」の中でも特異な魅力を持ち続けている存在なのである。
本論文は、この「インドとは何か」という問いをめぐって生産されてきたイメージ群を、二つの潮流で捉えうると考え、分析を行う。それは、アジア的・東洋的な「専制」のイメージと、サンスクリット的な宗教文化のイメージである。
インドへのアプローチには常に二つの本質論が関わってきた。ブラーマン的・サンスクリット的価値観を重視する宗教文化論的インド理解と、王権を重視する権力論的インド理解とである。前者を代表するのがルイ・デュモンの浄・不浄論であり、後者を代表するのがマルクスのアジア的専制論である。インド研究はこの二つの本質論とその乖離からの脱却というテーマを長く抱えてきた。この、インド研究における宗教文化論と政治権力論の乖離という問題は、オリエンタリズムの東西のイメージの分離と対置と結びつくものである。近代西洋において「宗教」を世俗性と対をなすものと定義し、政治や権力などの世俗的な要素から切り離したことと、東洋を西洋と対をなす異質な世界と見ることとが連動しているのである。ゆえに、インド論をこの二つの本質論という視座から問うことは、オリエンタリズム的表象の内実とともに、その論理構造自体の形成を問うことになるといえよう。
本論文では、この二つのインド論の形成と展開において、18世紀末のオリエンタリストのインド論が結節点となったと見て、これを焦点にその展開を分析する。ヨーロッパのインドに対する関心には、専制をめぐるそれであれ、宗教をめぐるそれであれ、古い歴史があり、インドをめぐる知見は、真偽や精度のレベルは様々ながら、数多く伝えられていた。しかし、ヨーロッパのインド研究が近代的な学問の装いを持つものへと変化し、しかも人々の幅広い関心をひくようになった画期は、18世紀末に見出される。2章ではその立て役者と言うべき存在、サー・ウィリアム・ジョーンズのインド研究のあり方を明らかにすることで、何故に18世紀末イギリス人のインド論にインド論の分岐点を見出しうるのか、それは二つのインド論の潮流をいかに交わらせあるいは分離させたかを理解する手がかりとする。
ジョーンズの業績の画期的な意義は、インド研究に近代的な学問分野の体裁を与えたことと、西洋の人々にインドへの共感的な関心の基盤を与えたことに見出される。そのインド研究の大きな推進力は、インドのすべてを「知る」ことへの強い意志である。ここには、東洋学者であるとともに法学者であり判事でありまた詩人でもあったジョーンズの言語・法・文化観が関わっている。彼は文化に育まれた法の精神を理解しこれを実現することを目指しており、そしてインドという場で判事という立場でこれを実践しようとしたときに、サンスクリット文献にその「精神」を見出した。サンスクリット語とこれによってあらわされるものこそを、インドの「精神」であり「本質」であると見たのである。ここにインドに対する宗教文化論的理解の一つの原点が見出される。インドを宗教から理解するという営み自体は、3章で見るようにキリスト教を背景にする長い歴史があるが、サンスクリットの決定的重視と、「法」概念との関係づけは、それまでにない大きな意味を持つ。そしてジョーンズによる「サンスクリット語の発見」は、印欧語族の仮説により、西洋にインドへの共感の基盤を与えることになった。インドについて語ることは、西洋と対をなし「負」の表象を引き受ける異物を語ることではなく、西洋と源を同じくする古く高度な文明を語ることとなったのである。本章ではジョーンズがインド論に与えたこれらの変化を明らかにするとともに、そのインド研究の動機付けとなった「知る」という営みの位置づけにも注目し、ここからあらためてオリエンタリズムの何たるかを考察する。
3章では、ブラーマン的・サンスクリット的な「宗教」の価値観をインドの本質と見るインド観の系譜をたどる。2章で見たように、筆者はジョーンズらオリエンタリストのインド論が、アジア的専制論と対をなす宗教的インド論の確立に大きな意義を持つものと考えるが、その根本をたどれば、やはりそれ以前のイギリスのインド論、そしてさらには中世以来のインドをめぐるキリスト教的感性にまで遡ることとなる。創世記や新約外典であるトマス行伝の記述、プレスター・ジョン伝説などを根拠に、西洋にはインドをキリスト教伝統を持つ世界と見て憧れをよせる感性が育ってきた。インドに対する宗教文化論においてしばしば「共感」が強固な基盤となったことには、このようなキリスト教的背景があるのである。そしてこのキリスト教的感性に導かれたインド研究は、インドへの熱烈な共感と憧れを動力源とする人種に関する新たな神話、「アーリア神話」を生み出していくこととなる。本章ではこのような宗教文化論的インド論の系譜をたどり、そこにおける「共感」の重要性を明らかにする。
4章では、アジア的専制論の系譜をたどる。マルクスに代表されるアジア的専制論であるが、その根本は19世紀までのイギリスのインド研究、そしてそれ以前の旅行者らのインド記録などへと遡るものである。そこで語られる「専制」のイメージがいかに「オリエンタリズム」的な本質論の性質を示していたかに着目しつつ、アジア的専制論における重要なモチーフがどのように継承されてきたかを考察する。アジア的専制論とは、単なる政体論ではなく、専制こそをアジアの本質と見て、ここからアジア世界全体を理解せんとする論である。マルクスが定式化したそれには、私有財産の不在と、孤立的で変化のない小宇宙的な村落共同体という要素が大きな意味を持つ。これらの要素と専制が相互に支えあい、アジア世界のあり方を規定しているとされる。そしてマルクスの専制論は、他ならぬインドに関する情報を大きな根拠として形成されたのである。アジア的専制論は、東洋=専制の世界とのイメージの長い歴史の上に展開してきている。そして東洋=専制のイメージの対極には、ギリシアとローマの共和制、あるいは近代西洋の立憲君主制が位置づけられている。つまりアジア的専制論の根源には、常に西洋の「自己」との対比があり、これこそがこの論の動機付けとなってきたことがわかる。しかし、「法」「文化」という概念が持ち込まれるとき、そこには単なる差異化と疎外では語り尽くせない幅も生じていたこともまたわかるのである。
5章では再び18世紀末イギリスのインド論に立ち戻る。インドへの共感的理解で知られる「オリエンタリスト」らのインド論を、とくにベンガル総督ウォレン・ヘイスティングズの弾劾裁判に焦点をあてて分析する。インドに対する共感的姿勢をともにする人々が何を焦点に対立したのかを見ると、「共感」とそこからこぼれ落ちるものへの違和感・嫌悪の処理の過程が明らかになる。その過程で、「専制」というインドの負の表象が、ジョーンズらによって捉え直された「宗教」「文化」の像と対置されることとなる。二つのインド論が交わり、対置され、ここから乖離してゆくのである。
西洋のインド像を二つのインド論の潮流という視座から見ると、常に「共感」が焦点となってくる。異なる文化を、時に自らと同質の存在として、時に自らと対をなす異質な存在として見る時、そこには対象に対する二つの理解のあり方が示される。そして二つのインド論の交差点となった18世紀末のイギリスのインド論は、文化をめぐるこの二つの理解のあり方の双方に足をかけている。この時代、インド統治にあたってインド文化の研究と尊重が求められた。その背景にあるのは、エドマンド・バークの「偏見」論に端的に表されるような、法を理性ではなく文化によって規定されるものと見る志向である。オリエンタリストらのインド論の基本は「共感」にあったが、その一方にはこのように文化の固有性を認める契機がある。そして彼らのインド論は、この、「わかる」ということと「わからなくてもよいのだ」ということの狭間での「共感」の操作の過程と読むことができるのである。「同じ」「わかる」ということと、「違う」「わからない」ということとの双方に足をかけてインドを語ろうとしていた18世紀末のオリエンタリストらのインド論は、インド研究とオリエンタリズムのあり方を、そして異なる存在の間の理解というものを広く考える上で、大きな意義を持つのである。