1研究の主題
本研究の目的は、まず第一に、英国の哲学者G.E.M.アンスコムがその著書『インテンション』において提示した「実践的知識」の概念を解明することにある。
人が意図的に行為しているとき、自分が何をしているのかを観察によらずに知っている。そして、この知り方は意図的に行為しているときの行為者自身に固有なものである。アンスコムは行為者に固有なこの知識を「実践的知識」と呼び、それは観察によらずに得られると主張する。
この「実践的知識」の概念は、『インテンション』における彼女の考察の核心をなす概念であるが、彼女の議論の難解さも手伝って、これまで正確に理解されてきたとは言いがたい。特に、それがどのような意味で「観察によらない」ものであるのかということについてはさまざまな見解がある。そこで本研究では、まずそれがどのような意味で「観察によらない」ものなのかを明らかにする。この問いに対するわれわれの解答は「実践的知識とは自分の行為をあるアスペクトの下にとらえることである」というものである。アスペクト把握はある意味で知覚から独立したものであり、それゆえに実践的知識は観察によらないものと呼ばれているのである。
しかしこのように論じれば、実践的知識を、通常言われる意味の「知識」の枠組みの中で理解することは困難になる。なぜなら、自分の行為をあるアスペクトの下にとらえることは、必ずしもその行為について真なる判断を下していることを保証するものではないからだ。
そこで、本研究の第二の目的は、実践的知識がどのような意味で「知識」と呼ばれているのかを明らかにすることである。『インテンション』においてアンスコムは、実践的知識と実践的推理の関係を強調している。両者の関係についてのアンスコムの議論を手がかりとしてわれわれが到達するのは、「実践的知識は、行為者の欲求を実現するには何をすればよいのかを行為者に示すものであるがゆえに『知識』と呼ばれるのだ」という解釈である。通常の知識が、世界に対する正しい認識を得るのに役立つのに対し、実践的知識は、欲求に合わせて世界を変化させるのに役立つものなのである。


2論文の構成
本研究は大きく分けて2つの部分に分かれている。前半の第1章と第2章において考察される問いは、「実践的知識とは何か」という問いである。
アンスコムは実践的知識を「意図的行為についての観察によらない知識」と特徴づけてはいるものの、『インテンション』においてこの概念に対する体系的な説明を与えてはいない。このため、彼女の議論は今に至るまで正確に理解されているとは言いがたい。また、そのために誤解に基づく批判も多くなされてきた。それゆえ、前半部における考察の目標は、実践的知識の姿を正確に描き出すことにある。われわれはその過程で、実践的知識が行為において果たす重要な役割を見いだすことになるだろう。
まず第1章では、アンスコムが「観察によらない知識」の典型例として挙げる、四肢の位置の知識について考察する。実践的知識の概念を主題とする本研究において、四肢の位置の知識を特にとりあげる理由は以下の点にある。それは、実践的知識の概念に対する批判の多くが、この二種類の知識が全く同じものであることを暗黙のうちに前提しているからである。しかし、それは正しい見方ではない。むしろ、四肢の位置の知識と実践的知識とは、非常に重要な点において異なっているのである。この点が見落とされてきたために、アンスコムの実践的知識の概念は、これまで無理解にさらされてきたと私は考える。そこで、第一章では、まず四肢の位置の知識がどのような知識であるかを明らかにした上で、四肢の位置の知識と実践的知識の間の相違点を示すことにしたい。
第2章では、「観察によらずに知られるのは意図のみであり、なにをしたことになっているのか(意図的行為)は観察によってはじめて知られる」と主張し、アンスコムを批判する見解をとりあげる。この章の目標は、アンスコムの議論をこうした見解から擁護することを通じて、実践的知識の概念について整合的な見方を提示することにある。私のみるところ、アンスコムが「自分の行為について観察によらずに知ることができる」と言うとき、そこで意味されているのは「『なにをしたことになっているのか』について、観察によらずに真なる判断を下すことができる」ということではない。むしろ、そこで意味されているのは、自分の行為を「~をすること」というアスペクトの下でとらえるということなのである。そして、実践的知識をこのような仕方で理解したとき、『インテンション』におけるアンスコムの難解な議論を整合的に読み解くことが可能になると私は考える。

ただしこの解釈によれば、実践的知識は「何をしたことになっているのか」についての真なる判断を意味するわけではない。またアンスコム自身、自分が従来とは異なる知識観の下で実践的知識をとらえていることを示唆している。それゆえ、アンスコムが、どのような意味で実践的知識を「知識」と呼んでいるのかを明らかにする必要がある。それが後半の第3章から第5章の課題である
第3章では、第2章で提示した私の解釈とは別の路線で、アンスコムの実践的知識の概念をとらえようとするファルヴィーの議論の妥当性を検討する。彼によれば「観察によらない知識」という語が意味しているのは、通常の知識に要求される基準に照らせば、われわれは自分のしていることを観察することなしに、自分の行為について知識を主張することが出来るということなのである。たしかに、このような見解には一面の真実が含まれている。しかし、この見解はアンスコムが実践的知識の概念に託した重要な役割を取り逃がしている。それは、行為に際して行為者を導くという役割である。この点を見落としているために、この見解はアンスコムの議論の解釈として適切なものとは言えないのである。
そこで第4章では、実践的知識がどのような意味で「知識」と呼ばれるのかということについて私の解釈を述べる。導きの糸となるのは、『インテンション』後半における実践的推理についての一連の考察である。それらの考察を再構成することによってわれわれが到達する結論は、まず第一に、実践的知識はわれわれが行う実践的推理に由来するものであるということである。そして第二に、実践的推理の妥当性を始めとするいくつかの条件が満たされているときに限り、実践的知識は知識として正当化されているということである。
以上の議論を踏まえて、本研究では、実践的知識が「知識」と呼ばれる理由をつぎのように論じる。そもそも実践的推理とは、行為者が自分の欲求を実現する行為は何であるかを見いだすために行うものである。推理の出発点となる欲求の内容は、推理の過程を通じて、行為として遂行可能なレベルにまで具体化される。その結果、行為者は自らの欲求を実現する行為を「知る」ことになる。このように、欲求の内容が意図において具体化された分だけ、行為者の知識は増すことになる。そして、実践的知識が「知識」たるゆえんは、それが真である(=事実と一致している)という点にあるのではなく、むしろそれが言及している行為を遂行することによって、行為者の欲求が充足されるという点にあるのだ。この意味での「知識」が、「何をしたことになっているのか」についての知識、すなわち観察によって得られる通常の知識とはまったく異なるものであることは明らかだろう。実践的知識についてのアンスコムの議論の背景には、従来のものとは全く異なる知識観があり、これを視野に入れなければ実践的知識の概念を正当に評価することは出来ないのである。
さらに第5章では、実践的知識が実際の行為についての知識ともなりうるのはなぜかという問題について論じる。実践的知識について興味深いのは、それが単に自分の欲求を実現する行為についての知識であるというだけでなく、多くの場合、実際の行為とも一致する、すなわち外界についての知識ともなりうるという点である。しかし、実践的推理を通じて、観察によらずに得られる実践的知識が、なぜ実際の行為と一致するのかということは、それ自体説明を要することがらのように思われる。この点について考える手がかりとして、ヴェルマンの議論をとりあげる。ヴェルマンによれば、実践的知識が実際の行為の正しい記述になることを保証しているのは、自らの行為を実践的知識に一致させようとする行為者のコミットメントなのである。そして、このコミットメントの源泉は、自分が何をしているのかを知りたいという欲求、すなわち自己知への欲求にあると彼は主張する。なぜなら、実際の行為が実践的知識と一致すれば、行為者は自分の行為について常に知っていることになり、自己知の欲求も満たされるからである。実践的知識が実際の行為と一致することを保証するものとして、それを真にしようとする行為者のコミットメントを挙げた点で、ヴェルマンの議論は正しい。しかし、そのコミットメントの源泉を自己知の欲求に求める点では、ヴェルマンの議論は間違っている。そのため我々は、行為者のコミットメントの源泉が何であるかということについては、ヴェルマンと異なった見解をとることになる。

以上の議論によって、アンスコムの念頭にあった実践的知識の概念とはどのようなものであったのかを明らかにすることが本研究の目標である。