北条団水の研究

水谷 隆之

本論文は、貞享(1684-1688)から宝永(1704-1711)にかけて俳諧師・浮世草子作者として活躍し、また、西鶴第一の門人としてその遺稿集全ての編纂に携わるなど、出版界においても常に重要な位置にあり続けた北条団水について、その作品および創作活動の実態、ならびに西鶴や出版書肆との関係について考察したものである。
第一章「団水の初期作」では、これまで団水作か否か明確な結論が出ていなかった『諸宗鉄槌論』(貞享四年六月刊)と『好色破邪顕正』(貞享四年五月序)とを団水作として確定し、団水研究の基礎をかためた。さらに、団水の創作方法および俳諧観についても新見を提示し、第二章以降の研究課題を導きだした。
第一節「団水の初期作―『諸宗鉄槌論』『好色破邪顕正』作者考証―」では、主に『諸宗鉄槌論』の創作方法について検討し、本書を団水作として位置づけた。本格的な仏教書としての風格を備える『諸宗鉄槌論』を弱冠二五才の団水の著作とすることはこれまで疑問とされていたが、『諸宗鉄槌論』には仏学解説書『津金寺名目』(尊舜著)に拠った記述が夥多存在し、しかもそれらは原文の表記をほとんど変えることなく用いられたものである。よって、若年の団水であっても本書の執筆は可能であり、本書が団水作であることを疑う主要な根拠は解消される。さらに、『諸宗鉄槌論』と『好色破邪顕正』には複数の団水作品と類似する表現が認められ、それらは単なる模倣の域に留まらないことも確認できた。両書が団水作であることを疑う余地はもはやない。
第二節「『好色破邪顕正』の創作方法」では、『好色破邪顕正』にみられる〈好色本排撃論〉の意味について検討を加えた。団水みずからが『色道大皷』や『野傾友三味線』といった好色物浮世草子を物していることから、作者認定問題を含め、〈好色物排撃論〉の執筆意図については従来疑問視されてきた。しかしながら、『好色破邪顕正』の文章は、団水が当時他の作品の執筆の際に利用していたごく手近な文献をもとに発想・構築されたものであり、またそこには当時の団水の仏学や俳論への関心が色濃く投影されている。すなわち、本書における〈好色本排撃論〉の内実は必ずしも団水自身の信条や思想に基づくものではなく、仏学や俳論に関する知識を利用すること自体を目的とし、さらに話題性をもねらって創作されたものとみるのが妥当である。なお、本節では、『好色破邪顕正』の記述の一部に岡西惟中の〈俳諧寓言説〉を批判する文章が織り込まれていることについても注目した。これは本論文の第二章第三節および第四節につながる問題である。
第二章「西鶴と団水」は、西鶴の浮世草子や俳諧の特徴について新たに検討するとともに、元禄(1688-1704)期における西鶴と団水の関係について述べたものである。
第一節「『懐硯』巻一の四「案内しつて昔の寝所」について」では、『伊勢物語』第二四段をもとに創作された西鶴作『懐硯』(貞享四年三月刊)巻一の四について新たな解釈を提示した。西鶴当時の『伊勢物語』注釈書には、現代の読み方とは全く異なる解釈をしている箇所がある。それをふまえると、『懐硯』巻一の四は、家の論理や親への孝などといった社会倫理を全うすることが夫婦の「誓い破り」に直結するという、いわば異なる倫理の二重構造を軸に、人間存在の不確かさを描いた章として新たに位置づけることができる。
第二節「西鶴「好色物」の女人像」では、第一節で検討したような西鶴の「世の人心」の見方が、各浮世草子作品にどのように表れているかについて、特に好色物浮世草子に描かれた女性像を軸として俯瞰的に検討した。西鶴作品の中には、私情を排し〈まこと〉を貫くさまが理想的に描かれた人物像もあれば、逆に、私欲・私情に流され、そこから外れていくさまが滑稽に描かれた人物像もある。いわば、「世の人心」を軸とした〈実〉と〈虚〉の相克あるいは往復を通してさまざまな人物像がそこに造型されているのであり、こうした視点は、本章第四節でも述べるように西鶴晩年の浮世草子や俳諧においてよりいっそうの深まりを見せている。
第三節「元禄初期の団水と西鶴―『特牛』を中心に―」では、元禄期における西鶴と団水の協力関係について考察した。『誹諧物見車』(可休著、元禄三年刊)への反駁書である『特牛』(団水著、元禄三年刊)と『石車』(西鶴著、元禄四年刊)の所論には意見の相違が散見する。しかしそれは、両者の反駁方針の違いに起因するもので、俳諧観そのものの懸隔を必ずしも示すものではない。一方、団水自身の俳諧観を知ることのできる『俳諧未曾有』では、惟中の俳論書から多くの文章を引用しつつも、その〈寓言説〉の一部を否定し、宗因風を発展的に受け継ごうとする姿勢がみられる。そしてこれは、当時の西鶴の主張と明確に一致するものである。さらに、西鶴本への京書肆の参入は、団水の関与によって成ったと推測することもできた。俳諧そして出版面の双方に、両者の協力関係をうかがうことができるのである。
第四節「西鶴晩年の俳諧と浮世草子」では、本章第一節から第三節までの研究成果をふまえ、元禄俳諧と西鶴の俳諧の関係について考えた。有心正風体の元禄俳諧は、無心所着体を特徴とした宗因風の俳諧とは対照的なものであったが、俳言の背景に当世風俗を常にみつめ、それを俳諧付合の主軸にしてきた西鶴にとって、そうした元禄俳諧の特徴自体はみずからの俳諧の方向性に必ずしも反したわけではない。実際、西鶴晩年の作である『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五年頃成)では、宗因風の特徴であった無心所着の滑稽は影をひそめ、世の風俗、「世の人心」への意識をさらに強めた付合がなされているのである。これは、西鶴晩年の浮世草子における「世の人心」への関心の強まりと軌を一にしており、事実、『自註絵巻』と『西鶴織留』との間には、共通した発想をも見出すことができる。西鶴にとって元禄疎句俳諧は、世の風俗や人心の種々相をさまざまな角度から切り取り、それを虚構の現実として再構成して描き出した浮世草子と同様、俳言の背景に備えるべき〈俗〉の文脈をより強く意識して実践しうる場となっているのである。
第三章「団水作とその出版」は、団水と出版書肆との関わりについて、またその中でどのように作品が創作されたのかについて、検討したものである。
第一節「八文字屋興隆期の団水―『野傾友三味線』の版行経緯をめぐって―」では、江戸の万屋清兵衛、京の上村平左衛門・柏屋勘右衛門らの出版書肆と団水との関係を示した。団水作『野傾友三味線』(宝永五年閏正月刊)の初版初印本の版元については従来指摘がなかったが、本節では、それが江戸の万屋清兵衛であることを示したうえで、当時京在住であった団水の作品が江戸の万屋の単独板で出版された原因は、当初万屋の共同出版者であった京の上村平左衛門の脱落によるものであると推定した。また、これによって、団水と上村平左衛門の間には西鶴遺稿集の刊行終了後も関係があったことが分かり、上村の脱落がその後の柏屋と団水との提携を促進したという事実が浮かび上がった。宝永期の浮世草子出版界についてはこれまで、江島其磧を擁する八文字屋と、西沢一風を擁する菊屋との競争期として位置付けられてきたが、上記の事実が示すように、団水をめぐっても複数の書肆が激しい動きをみせているのである。
第二節「『本朝智恵鑑』の創作方法」では、団水作『本朝智恵鑑』(宝永六年成)の創作方法について検討し、その成立の経緯について考えた。本書には、『元亨釈書』や『神道名目類聚抄』等の文献が多数利用されている。そしてそれら典拠に拠った衒学的な話題は、作品のテーマにあわせ、人物伝と組み合わせて挿入されている。しかし、本書の中には、「本朝」の「智恵」者の逸話を集めるという本来のテーマとはなんら関連性のない衒学的で雑多な話題のみから成る章が複数存在し、構成にまとまりを欠いている。そのため従来本書の評価は低いのであるが、しかし、こうした章群が混入した原因の所在は、作者の側ではなく、書肆の側にあったものと思われる。各巻の章数を一定にし、また出版時期を遅らせたくないという版元菊屋七郎兵衛の意向のもと、既に完成していた章を分割して章数を整え、出版に踏み切ろうとした形跡がみられるからである。これは、書肆間の熾烈な争いの中でしのぎを削る版元の意向が、作品創作にまで影響を及ぼした事実を推測させるものであり、前節で検討したような、団水と書肆との密接な関わりを裏付ける事例でもある。
以上、本論文では、作者認定・典拠特定・創作方法の実態解明など、団水研究を行うために必要な基盤をととのえ、団水およびその作品の位置づけを行った。また、団水が浮世草子・俳諧・出版など複数の面で西鶴と協力関係にあり、特に西鶴晩年の活動に深く関わっていたことを示し、そこで得られた知見をもとに西鶴晩年の俳諧観についても検討した。さらに、団水を中心に浮世草子出版界の動向を追い、作者と書肆それぞれの意向がからみあって作品が創出される具体相を提示した。

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