本論文は、日本、現存最古の歌集『万葉集』を表現と享受の視点から研究したものである。『万葉集』は漢字文献であり、それを読むということは、訓むことと不可分の関係にある。訓みの研究は享受史を辿ることが一側面として常に求められる。表現と享受の研究は『万葉集』研究の根幹にあたる課題である。
本論文では表現に関しては、『万葉集』の歌々が、どのようなことばで状況、情景を描いているのかを探求した。また一首一首を丹念に読むように心がけた。享受に関しては、現在の我々が『万葉集』を読む際に利用するテキストの大半が底本とする西本願寺本万葉集にその校訂活動を伝える、鎌倉時代の学僧仙覚の業課を辿ることを目標とした。ただし、表現の研究においても、『万葉集』内での享受、後代の享受に留意した。
本論文は第一章「都と離宮」、第二章「景物と表現」、第三章「仙覚と享受」と三章仕立てとした。表現を主としたのが第一章、第二章で、歌に詠まれる場が、都や離宮の例を中心にした論を第一章に収め、具体的な景物に即した表現論を第二章にまとめた。仙覚の享受は第三章で取り上げた。以下、章節ごとに要旨を述べていく。
第一章「都と離宮」ということで、都の歌、旧都の歌、離宮の歌を題材に表現を軸に検証した。
第一章第一節「花と都」では、奈良の都の盛時を詠む歌として名高い小野老の歌「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」を取り上げた。この歌の「にほふ」が「薫」と表記されていることから、「にほふ」に即した研究は従来から存するが、「咲く花のにほふ」という表現が集中で稀であることを確認し、都を「盛り」と詠むことも一例のみで、『万葉集』では異例な表現の積み重ねであることを確認した。一首中に詠まれた「花」が具体化できるかどうかも読解の軸とした。そのように異質でありながら、『万葉集』内で享受されることで、花の盛りと都の盛りが軌を一にするような発想が定着し、『古今和歌集』の平城天皇の和歌「ふるさととなりにし奈良の都にも色は変はらず花は咲きけり」など後代へ受け継がれていったと推測した。また、小野老がこのような歌を詠出する背後に漢籍の存在があることを推測し、当該歌がテキストにて再現される大伴旅人を中心とした宴で果たす役割も論じた。
第一章第二節「近江へ――『心もしのに』考――」では、天智天皇の開いた都近江への懐古の思いを強く感じさせる、柿本人麻呂の歌「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ」を主に取り上げ、現在でも定説を見ない「心もしのに」という表現を検証した。研究史を確認し、集中の他の用例を分析し、「乱れ」にかかる「かりこもの」という枕詞を共通する点などから、「心も乱れるほどに」という意味と推定した。それにより従来「うちなびき心もしのに」と訓まれていた箇所を「うちなびく心もしのに」と訓むべきとの見解も示した。
第一章第三節「笠金村吉野行幸従駕歌考(一)――養老七年行幸――」では、巻第六巻頭の笠金村による吉野行幸従駕歌、すなわち吉野讃歌を取り上げた。『万葉集』歌を産み出す一つの重要な契機である吉野行幸を金村作から見た。先行する人麻呂の吉野讃歌の真似に過ぎないという低い評価の多い金村だが、先行する歌々の表現をどのように吸収し、歌をなしていったのかを具体的に検証した。新しい表現を随所になしていることを確認し、反歌を含めた歌群の構成意識も検討した。表現の達成からも巻頭に据えられるにふさわしい歌であったことを言及した。
第一章第四節「笠金村吉野行幸従駕歌考(二)――神亀二年行幸――」では、前節で取り上げた吉野讃歌の二年後に詠まれた、同じ金村の吉野讃歌を取り上げた。人麻呂作歌のみならず、金村自身の先行作を踏まえながら、「さやに」や「たぎつ」などを用い、視覚と聴覚が交響するような表現をなし、模倣ではない新たな達成を確認した。また長歌後半の「万代にかくしもがも」という表現に大君讃美の意味合いが込められていることを確認し、行幸従駕歌にふさわしい表現性を有する歌であると結論づけた。
第二章は「景物と表現」とし、具体的な景物を軸にそれらがどのような表現をなりたたせているのかを検証した。
第二章第一節「月と譬喩」では、譬喩歌の部立に収められている沙弥満誓「見えずとも誰恋ひざらめ山のはにいさよふ月をよそに見てしか」を取り上げた。月を譬喩としている歌であるが、諸注「深窓の美女」などと解している。しかし、「月人をとこ」などの語彙の存在、古代における「月」の呼称、「山のはにいさよふ月」という表現の集中での分析から、男性の喩として機能するものであったと論証した。僧籍にある満誓が女性の立場で詠むことにおもしろさのある歌になるが、そのような違和感を楽しませる歌い方は『万葉集』に収められている他の満誓の歌々にも確認されることも言及した。
第二章第二節「赤と白」では、大伴家持の歌々において、花を「にほふ」で表現する際の様相を検証した。赤と白の対比は「紅にほふ」と詠む巻第十九の巻頭歌に見られるが、「にほふ」とのみ詠んだところにも、その「紅」を感じ取らせようと表現している例を考証した。「にほふ」の行き着く先として、「うつろふ」さまを呼び込むように詠んでいると思われる歌も具体的に検証した。また家持が「にほふ」を嗅覚で用いているかどうかに関しても考察し、明瞭な例の存在を認めつつ、漢文の序と歌との距離に関しての問題を提起した。
第二章第三節「『ちどり』と『かはづ』」では、『万葉集』では対にも詠まれる、二つの水辺の景物「ちどり」と「かはづ」を取り上げた。平安以降の和歌において、場所や季節など歌語として固定していくさまも視野に入れながら、『万葉集』での表現性を追求することを主とした。「ちどり」のしきりに鳴くさまに恋情の高まりを表現する例を確認し、「ちどり」の鳴き声には過去への志向、「かはづ」の鳴き声には未来への志向を感じ取ることができる例があると論証した。
第三章は「仙覚と享受」とし、鎌倉時代の学僧仙覚の『万葉集』研究を辿った。仙覚が先行する学説をどのように受け止めているのかを探求した。仙覚の学の追究だが、主たる対象は仙覚の判断がうかがえる著書『万葉集註釈』(以下『註釈』とする)である。
第三章第一節「仙覚の知」では、仙覚が『万葉集』を研究するにあたって、どのような本を読んでいたのかを、仙覚の校訂を伝える『万葉集』諸本奥書の述懐から辿り、『註釈』において、具体的に書名を見る藤原清輔『奥義抄』、藤原範兼『五代集歌枕』の受容状況を検証した。仙覚が清輔、範兼へ信頼を置いていることを確認した。仙覚と清輔らの活動期との明らかな違いから、仙覚の『万葉集』研究が口伝などによらず、テキストを媒介になされていることも確認した。また『註釈』が『万葉集』そのものが傍らにないと理解しえない書物であるとも推定した。
第三章第二節「仙覚と歌学」では『註釈』に「或(有)抄」として引用される書物が具体的に何を指すのか、検証した。ほとんどにおいて、現存の本に引き当てが可能であって、仙覚が歌学書そのものを引用するとき『或抄』として引くのが一般であることを確認した。また、最も多く該当した『万葉集抄』は、当時具体的な名称が無く、仙覚が「或抄」と曖昧にせざるをえなかった可能性も言及した。
第三章第三節「仙覚と六条家本万葉集」では、仙覚が『万葉集』校訂において強い信頼を置いていた「六条家本万葉集」の『註釈』での引用状況を確認した。六条家本だから単純にその原文や訓を採用したわけではない例もあるが、仙覚が大いに利用していることが確認された。また文永6年(1269)に書写成立したことが明らかな『註釈』だが、寛元4年(1246)の校訂を反映する記事のようで、仙覚の結論が弘長二年(1262)に参照した「六条家本」が根拠であるような記述が存在し、そこをきっかけに寛元期の校訂に関わる「証本」の利用記事も見渡しながら、『註釈』の形成過程を動的に捉え、『註釈』が一度期になされたものではないことを論証した。