本研究では、網膜において光情報がどのように処理されているのかを解明するために、網膜の二次ニューロンである双極細胞からの神経伝達物質放出機構について神経科学的実験を行った。
第1章では、網膜におけるシナプス伝達と神経伝達物質放出に関するこれまでの研究を概観した。網膜は視覚の最も初期を担う神経組織であり、光受容のみならず、時空間コントラストの増強や運動方向の検出といった基礎的な情報処理を行っている。これらは網膜内の複雑な神経回路において、神経細胞間の接合部であるシナプスを介して情報をやり取りした結果を反映している。シナプスでは、ある神経細胞が興奮(脱分極)して軸索終末部にカルシウム・チャネル(Ca2+チャネル)を介してカルシウム・イオン(Ca2+)が流入すると、軸索終末部内に集積しているシナプス小胞(直径約30nm)が細胞膜に融合し、内容物である神経伝達物質が細胞外へと放出される(開口放出)。伝達物質の放出は、一般的な神経細胞では活動電位という非常に速い膜電位の変化によって制御されているのに対して、網膜の視細胞と双極細胞は活動電位を発生せず、光刺激に対して緩やかに変化する緩電位応答によって制御されている。視細胞と双極細胞では、軸索終末部のシナプス小胞はシナプスリボンと呼ばれる板状の構造に集積しており、活動電位を発生する神経細胞とは異なる形態学的特徴を持っている。視細胞や双極細胞のように緩電位応答する神経細胞に存在することから、シナプスリボンは持続的に神経伝達物質を放出するのに重要であると考えられてきたが、シナプスリボンと開口放出部位との位置関係を実験的に示した研究は未だ報告されていない。そこで本研究では、シナプスリボンと開口放出部位との位置関係について、実験的に解析した。
第2章では、本研究で用いた手法について詳細に記述した。本研究で用いたキンギョ網膜のMb1型双極細胞は軸索終末部が巨大であるために神経伝達物質の放出機構を研究するのに適している。本実験ではシナプスリボンや開口放出を引き起こすシナプス小胞といった非常に微小な構造を可視化する必要があった。そこで、細胞膜直下約100nmのみを非常に高い空間・時間解像度で測定することができる全反射照明顕微鏡や、時間解像度はほとんどないがさらに高い空間解像度を有する電子顕微鏡を用いて双極細胞軸索週末部の神経伝達物質放出機構を詳細に測定した。
第3章では、開口放出を引き起こす際に不可欠である細胞内へのCa2+流入に注目し、Ca2+流入部位とシナプスリボンとの位置関係を明らかにすることを目的として実験を行った。網膜から単離した双極細胞の軸索終末部をホールセルクランプ法によって膜電位固定し、シナプスリボンとCa2+流入部位を、蛍光物質をパッチ電極から細胞内に導入することによって可視化した。シナプスリボンはシナプスリボンと選択的に結合する蛍光物質であるfluorescein-labeledCtBP-bindingpeptide、Ca2+流入部位はCa2+濃度上昇によって蛍光強度が上昇する薬物(蛍光性Ca2+指示薬)によって可視化した。
脱分極刺激を与えてCa2+チャネルからCa2+を流入させると、蛍光性Ca2+指示薬の蛍光強度はシナプスリボンと一致した部位で局所的に上昇した(Ca2+スポット)。また、シナプスリボン、Ca2+スポットは時間と共に移動したが、両者の位置関係は5分間にわたって変化せず、その距離は約122nmと非常に短いものであった。シナプスリボンが細胞膜に接している部分は長径約300nmの楕円形をしているので、この結果はCa2+濃度上昇がシナプスリボンの直下で局所的に生じていることを示す結果である。したがって、Ca2+流入部位であるCa2+チャネルはシナプスリボン直下の細胞膜に局在していることが明らかになった。
第4章では、Ca2+流入部位がシナプスリボンの直下に局在していることをふまえ、開口放出部位のシナプスリボンに対する時空間的な関係について検討した。双極細胞からの開口放出には、脱分極刺激の開始とともに急速に、一過性に放出される早い成分と、それに引き続いて持続的に放出される遅い成分が存在する。早い成分の開口放出はシナプスリボンの直下で生じると考えられているが、それを実験的に示した報告はなされていない。また、遅い成分の開口放出については、シナプスリボン上段に係留されていたシナプス小胞が遅い成分として開口放出されるとするribbon仮説と、シナプスリボンから離れた部位で細胞膜近傍に存在するシナプス小胞が遅い成分として開口放出されるとするdockedoutliers仮説が提唱されているが、いずれも直接的な実験的証明はなされていない。そこで、脱分極刺激を開始後、いつ、どこで個々のシナプス小胞が細胞膜に融合するか(以降、この事象をシナプス小胞の融合イベントと呼ぶ)を検討した。
双極細胞軸索終末部に対して高濃度のカリウム・イオン(K+)に溶解したFM4-64を投与すると、開口放出とそれに続くエンドサイトーシス(シナプス小胞の再取り込み作用)によってシナプス小胞をFM4-64で蛍光標識することができる。蛍光標識されたシナプス小胞は全反射蛍光顕微鏡下では輝点として観察された。シナプス小胞をFM4-64で蛍光標識した後に双極細胞軸索終末部に対してホールセルクランプ法を適用し、脱分極刺激を与えて開口放出を誘発すると、シナプス小胞の融合イベントは輝点の消失とそれに伴う蛍光の拡散という現象によって定義できることが分かった。シナプス小胞をFM4-64で蛍光標識した後に双極細胞軸索終末部に対してホールセルクランプ法を適用し、パッチ電極からfluorescein-labeledCtBP-bindingpeptideを導入することによってシナプスリボンを蛍光標識した。FM4-64の蛍光特性は、シナプスリボンを標識するのに用いたfluorescein-labeledCtBP-bindingpeptideと大きく異なっているので、励起光、および吸収フィルターを切り替えることによってそれぞれの蛍光を完全に分離して観察することが可能であった。脱分極刺激を与えると、刺激開始直後にはシナプスリボンの近傍(シナプスリボンから300nm以内、リボン領域内)でほとんどのシナプス小胞の融合イベントが観察されたのに対し、刺激の持続時間が長くなるとシナプスリボンから離れた部位(シナプスリボンから300nm以上、リボン領域外)で数多くの融合イベントが観察された。リボン領域内外のシナプス小胞の融合イベントが生じた時間経過は、それぞれ早い成分と遅い成分の開口放出の時間経過と類似していた。
第5章では、開口放出部位のシナプスリボンに対する時空間的な関係がプロテイン・キナーゼC(PKC)の活性化によってどのように変化するのかを検討した。双極細胞のPKCをフォルボール・エステルの一種であるphorbol12-myristate13-acetate(PMA)によって活性化すると双極細胞から遅い成分として放出されるグルタミン酸放出量が増大し、この現象は開口放出されるシナプス小胞の数が増加するためであることが明らかになっている。PMAを投与しながらシナプス小胞の融合部位のシナプスリボンに対する時空間的な関係を検討した結果、PMAを投与しなかった場合と比較してリボン領域外で生じるシナプス小胞の融合イベントの割合が増加することが明らかになった。したがって、遅い成分の開口放出が主にシナプスリボンから離れた部位で生じることが強く示唆された。
第6章では、リボン領域外で生じたシナプス小胞の融合イベントがランダムな部位で生じているのか、それとも融合イベントが頻繁に生じるような部位が存在するのか否かを、実験データとランダムモデルシミュレーションの結果を比較することによって検討した。その結果、シナプス小胞の融合イベントはリボン領域外においても局所的に高頻度で生じることが明らかになった。
第7章では、双極細胞軸索終末部のシナプス構造を、電子顕微鏡を用いて詳細に検討した。双極細胞からの出力シナプスはシナプスリボン直下にしか存在しないと考えられてきたが、前章までの結果をふまえ、シナプスリボンから離れた部位にもシナプス構造が存在するか否かを調べた。PKCを活性化すると、シナプスリボンから離れた部位で細胞膜に接しているシナプス小胞の数が増加し、また、シナプス小胞はシナプスリボンから離れた部位でも細胞膜近傍に局所的に集積していた。シナプスリボンから離れた部位でのシナプス小胞の集積部位では、対面するシナプス後突起にシナプス構造(PostSynapticDensity:PSD)が観察されたので、このような部位はシナプスとして機能している可能性が高い。したがって、双極細胞は、シナプスリボン直下(リボンシナプス)とシナプスリボンから離れた部位(リボン無しシナプス)の両方からシナプス出力を行っていることが示唆された。
第8章では、本研究によって得られた知見を総合的に考察した。双極細胞からのシナプス出力はシナプスリボンの直下に限定されていると考えられてきたが、実際にはリボンシナプスとリボンなしシナプスという2種類の出力シナプスが存在していることが示唆された。Ca2+流入はシナプスリボンの直下で生じる現象である。したがって、リボンシナプスは少量のCa2+流入によって、素早く開口放出を行うことができると考えられるため、閾値が低く、素早い信号伝達に適していると考えられる。一方リボン無しシナプスはCa2+流入部位から遠いが持続的に開口放出が生じるため、閾値が高く、持続的な信号伝達に適していると考えられる。