批評家のための街路 ヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』とその周辺

岩本 剛

本論は、ヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』(1928)の実験的解釈をとおして、ヴァイマール共和国期ドイツの文芸ジャーナリズムにおけるベンヤミンの批評活動の意義を明らかにするものである。『一方通行路』の解釈にあたっては、ベルント・ヴィッテが論文「ヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』――パリ・オペラ座パサージュとベルリン・アレクサンダー広場のあいだで」(1992)のなかで原案を提出した方法的仮説を発展的に適用し、また、『一方通行路』と深く関連する1920年代後半のベンヤミンの書評・エッセイを適宜参照する。アカデミズムと訣別した知識人における文芸ジャーナリストとしての生(「生の構築」)と批評活動(「文学闘争」)のあいだの内的連関を重視する本論は、ベンヤミンの政治的批評の概念についての研究であると同時に、ヴァイマール共和国期ベンヤミンの政治的伝記としての性格をあわせもつ。

本論は、第1章「カプリ逃避行」・第2章「『一方通行路』まで」・第3章「技師のいる街路」・第4章「言語、行為」・第5章「市民の矜持」の計五章から構成される。

第1章では、1925年フランクフルトでの教授資格取得失敗とあわせて、ベンヤミンにおける政治的転回の契機となった1924年カプリ行の経過を、主に当時の書簡の参照をとおして伝記的に記述する。記述の中心的対象となるのは、「女革命家」アーシャ・ラツィスと「逃避者」ベンヤミンの運命的邂逅(「カプリの衝撃」)と、その背景をなす歴史的な状況布置(知識人の凋落・コミュニズムのシグナル・ファシズムのシグナル)である。また、ベンヤミンの政治的原体験といえる1923年ドイツの社会的破局とそれに対するベンヤミンの反応を、時局批判のメモ「中央ヨーロッパの現状分析のための着想」(1923)、ハナ・アレントの政治論等を手がかりに検証し、カプリ行の実態が「政治的なもの」(ならびに「政治的なもの」の不在として現出する社会的破局)からの「逃避行」であったことを明らかにする。本章ではまた、ヴァイマール共和国期ベンヤミンのテクスト生産方法(旅の経験のテクスト化)の先駆であり、『一方通行路』・パサージュ論にも方法的に通じるテクストとして、エッセイ「ナポリ」(1925)をとりあげ、政治的転回に向けた思考スタイルの変化について考察する。

第2章では構成原理・叙述形式の観点から、第3章ではイメージ系列・思想的内容の観点から、『一方通行路』の全体像が俯瞰される。
第2章では、文芸ジャーナリストに転身したベンヤミンの生活史と『一方通行路』の成立史の連動性に注目し、ヴィッテの原案をもとに、『一方通行路』の形式上の構成原理としての「建築的構成」という仮説を提出・検証する。『一方通行路』は、計60の断章から構成されているが、ヴィッテと本論の仮説によれば、60の断章は左右に30ずつ([1]「ガソリンスタンド」~[30]「引き伸ばし写真」、[31]「骨董品」~[60]「プラネタリウム」)の二列縦隊に並べられ、そのように並べられた断章は、道の両側に立ち並ぶ各々一個の建造物に見立てられる。その両側に「建造物=断章」が立ち並ぶ「道」、それが『一方通行路』に切り開かれた「街路=テクスト」空間としての「アーシャ・ラツィス通り」である。本論は、「アーシャ・ラツィス通り」を挟んで向かい合う「建造物=断章」([1]「ガソリンスタンド」と[31]「骨董品」、[2]「朝食室」と[32]「時計と金製品」、……、[30]「引き伸ばし写真」と[60]「プラネタリウム」)を、思想的内容を相互に補完しあう一対のテクストとして扱い、説得的な解釈の提示を試みる。『一方通行路』の断章群がその配置によって一個の「街路=テクスト」空間を建築的に構成するという、この方法的仮説は、本論がおこなう『一方通行路』解釈の実験的性格の根拠をなすものである。本章ではまた、『一方通行路』の題名の変遷(「友人たちのための小冊子」-「この道、通行禁止!」-「一方通行路」)が、ベンヤミンの政治的主題のひとつである「私的領域の公的開示」のデモンストレーションとなっていること、さらにジークフリート・クラカウアー、エルンスト・ブロッホ、フランツ・ヘッセルらによって書かれた同時代の書評を参照しつつ、『一方通行路』が市民的知識人への連帯表明の書であることを明らかにする。

第3章では、第2章の考察を引き継ぎつつ、『一方通行路』の献辞(「この道の名は/アーシャ・ラツィス通り/この道を著者のなかに/技師として/切り開いた女性の名にちなんで」)にあらわれる「技師」のアレゴリー像の分析をとおして、「技師」の歴史的来歴、アヴァンギャルド芸術運動にいわれる「芸術家‐技師」の理想、「技術をめぐる抗争」とも称される1920年代の技術論における「技師」をめぐる言説を適宜参照しながら、「アーシャ・ラツィス=技師」の同一化にこめられた思想的含意を展開し、一個の「イメージ空間」として見た『一方通行路』をつらぬくイメージの系列を観察する。『一方通行路』では、「技師」の語が二回だけ用いられるが、「技師」が献辞と断章[30]「引き伸ばし写真」に、すなわち、本論第2章の仮説に従うならば、まさに「アーシャ・ラツィス通り」のはじめと終わりの地点に姿をあらわす点に本論は注目する。『一方通行路』のイメージ系列を統轄するのは、「技師」が「技師」を生みだす「生」の円環であり、同書のライトモティーフをなす、あらたなる「生」への意志としての「生の構築」は、「男」と「女」の想像的にエロス的な結合から生まれた「技師」が、「生みだす者」=「ゲーニウス/エンジニア」としての「技師」へとメタモルフォーゼを遂げるプロセスのうちに表現される。

第4章では、ベンヤミンにおける批評概念の戦略的再構築を政治的転回の一環として位置づけるとともに、哲学的批評から機能的批評への世俗化によって特徴づけられる、その再構築の経過を、1930年の批評論関連メモの読解を足がかりに、さらに初期言語論「言語一般および人間の言語について」(1916)・雑誌「ユダヤ人」創刊計画に端を発する、言語と政治的テクストの概念をめぐるマルティン・ブーバーとの対決(1917)・雑誌「新しい天使」創刊計画の挫折(1921-1922)にまで遡って検証する。哲学的批評から機能的批評への世俗化は、前者からの後者の断絶を意味するものではなく、前者を、その本質を損なうことなく後者の形式へと転形・再編成することをめざしていた。それは、「ゲーニウス」から「エンジニア」へのそれにも等しい、ひとつのメタモルフォーゼである。本章ではまた、『ドイツ悲劇の根源』(1925/1928)は、『一方通行路』と相前後して1928年1月に刊行されたという事実をふまえた上で、本論第2章に提出した仮説を、これら二つの作品の関係に適用する。すなわち、バロック悲劇論「認識批判的序章」にあるトラクタートの概念を、『一方通行路』の叙述形式への註釈と捉え、解釈を試みる。「文学闘争」における「書く」技術ならびに「読む」技術の再定義という問題に対して、『一方通行路』は、トラクタート的言語としての機能的批評をメディアとする、「書く」知識人と「読む」知識人のあいだの政治的連帯を企てる。

第5章では、ラディカルな精神的自由としてのアナーキズムを起点に、脱政治的な逃避(カプリ逃避行)、マルクス主義・コミュニズムへの実験的接近を経て、最終的に政治的アウトサイダーの立場において決着する、ベンヤミンの政治的メタモルフォーゼの経過に批判的検証を加える。「私的領域の公的開示」を主題とするベンヤミンの政治的思考にあって、アウトサイダーとは、なによりもまず「家」の外に出た者を意味する。すなわち、秘匿された私的空間としての「家」を脱出し、公的に政治的な空間としての「街路」に進出したアウトサイダーだけが、「文学闘争の戦略家」へ成長する可能性をもつ。「ベンヤミン=左翼の文芸ジャーリスト」という広く流布した評価を根底から問い直す本論は、『一方通行路』の諸断章、「神学的‐政治的断章」(1920/1921)のアナーキズム、「モスクワ日記」(1926/1927)における政治的自己反省、身体論、「モスクワ=コミュニズム」と「パリ=シュルレアリスム」のあいだの中間点としての『一方通行路』の地政学的位置、「私的なもの」と「公的なもの」の抗争についての考察から、ベンヤミンにおける政治的転回の企図は、マルクス主義・コミュニズムへの実践的参加ではなく、市民的知識人に固有の政治化にあったこと、そして、『一方通行路』の「街路=テクスト」空間は、市民的知識人がアナーキズム的な個人の精神的自由を共有するアウトサイダーとして政治化し、言論活動をとおして互いに競い合い、かつ連帯するためのフォーラムとして構想されたことを明らかにする。

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