日本古代における葬送・墓制についての文献史料にもとづいた実証的研究は、和田萃氏による先駆的研究を除くと、現在にいたるまでその概説さえ存在しない状況にある。通説とされている和田氏の研究も、その関心は主に大化前代にあり、喪葬令についての詳細な検討はほとんどなされておらず、奈良時代以降における喪葬儀礼の理解へと直接結び付けるには問題が大きい。膨大な研究史を誇る律令制研究においても、喪葬令という編目はあまり重視されず、全面的な研究はほとんどなされていないのが現状である。そこで本研究では、喪葬令の分析を核に日本古代における喪葬儀礼の復原をおこない、礼制受容の過程を明らかにするとともに、そこから窺われる国家・社会の構造について検討をおこなった。特にその過程で、史料に恵まれない奈良時代における儀礼を、律令規定の分析という手法によって復原するという、新しい方法論を提示することをめざした。
第一部は「律令国家の形成と喪葬儀礼」と題し、大化前代から「大化の薄葬令」を経て、天武・持統朝の喪葬令規定制定へと結びつく過程について論じた。この時期の喪葬儀礼の整備過程からは、律令国家の形成と密接に関わる政治的意図を読み取ることができるのであり、こうした視点のもと喪葬令や出土墓誌といった素材を積極的に用い、当該期の喪葬儀礼の復原とともに律令制の特質についても指摘をおこなった。喪葬儀礼や一族墓という場は、本来は氏族制的秩序を確認する場として機能していたが、「大化の薄葬令」で示された「公葬制」の方針は、その場に朝廷による介入をもたらすものであり、天武・持統朝における喪葬令の継受は、「公葬制」の方針をさらに進展させるものであった。喪葬令に示された中国礼制にもとづく新しい儀礼体系は、律令官僚制的秩序の実現を目的としたものであり、これによってもたらされた官人層の喪葬儀礼や埋葬地の大きな変化を論じた。第一章「日本古代喪葬儀礼の特質―喪葬令からみた天皇と氏―」では、喪葬令の日唐比較を中心に、令制の構想した喪葬儀礼の復原を試みた。日本令における様々な改変は、氏族結合を崩して律令官僚制のもとへ再編成しようとする律令国家の政治的意図にもとづく改変であったと推測し、また勅使弔問の際に読み上げられる弔詔が、天皇と氏との仕奉関係を更新する役割を果たしていたことを明らかにして、律令官僚制的秩序の背景に天皇と氏との伝統的・人格的結合が存在していたことを指摘した。第二章「「公葬制」と外官の喪葬」では、関晃氏の「公葬制」概念について再検討した上で、「公葬制」による一族の喪葬の場への国家的介入は、氏族結合の場の解体と改新政府のもとへの再編成という政治的意図をもっており、天武・持統朝に喪葬令が完成すると「公葬制」化がより一層おし進められたと論じた。またこの方針が実際の喪葬の場面にも適用されていたことを、外官の喪葬事例から確認した。第三章「墓誌からみた官人と埋葬地」では、官人層の埋葬地の在り方とその変化について検討した。墓誌の事例から、七世紀は中央官人も本拠地の一族集団墓地に埋葬されていたが、八世紀になると、下級官人・非官人層が本拠地に埋葬される一方、中央の上級官人は都城周辺に埋葬されていることがわかる。本拠地での埋葬事例からは、中央貴族と地元の一族墓との密接な関係、古墳が氏族結合に果たした役割、氏寺と古墳との連続した関係等を読み取ることができる。一方で都城周辺での埋葬事例からは、律令官僚制のもと都城に集住し、地元の氏族制的秩序を離れた存在となった中央上級官人の政治的立場の変化を窺うことができ、こうした変化は喪葬儀礼の変化とも対応していると論じた。
第二部は「令制儀礼の展開と礼の受容」と題し、喪葬令規定が天皇・太上天皇の主導のもとに徐々に実現されていく過程を明らかにし、礼制受容とのかかわりについて論じた。喪葬令は伝統的儀礼とはかなり異質な内容を持っており、令施行とともに実現できるような性格の規定ではなかった。それが実現されていくのは、遺詔によって火葬をおこなった持統太上天皇や、服喪の実践や埋葬禁止規定の遵守を図った桓武天皇らの主導によるものであった。新しい儀礼はまず天皇とその周辺の上級官人層から取り入れられていったのである。奈良時代の天皇喪葬儀礼の復原からも、中国礼制を積極的に取り入れる姿を見ることができる。しかし令制儀礼は早くも九世紀中頃から後半には放棄されるようになり、平安時代の儀式書に見えるような新しい儀礼へと変化していく。その変化を死亡報告や弔使派遣などの展開から示し、令制のめざした「公葬制」からの脱却過程を読み取った。第一章「喪葬令と礼の受容」では、持統の喪葬儀礼や桓武の服喪において、天皇・上皇が率先して喪葬令規定を実現していく過程を論じた。また日本令が唐礼からも立条されているとの通説に対し、日本令に継受された礼制はあくまで唐令の範囲内であったことも述べた。第二章「喪葬令皇都条の再検討」では、考古学分野でも利用されることが多く、従来日本の独自性が強調されてきた本条について、唐令の影響を強く受けているであろうこと、その実効性については慎重であるべきこと、桓武朝の唐風化政策を背景に、礼秩序の表現でもある本条が意義を増大させたことを推測した。第三章「死亡報告と弔使派遣の展開」では、中央官人の死亡報告が「私的」関係を通じたものへと変化していく一方で、周縁の大宰権帥の場合は律令制原則たる「公的」ルートが維持されていたことを指摘した。また葬司・葬具の辞退のために死亡報告が遅延するようになると、これに伴って弔使派遣も埋葬後へとずれ込むようになり、「公葬制」から脱却していくことを指摘したが、これは附論「宇多法皇の移について」において述べた遺体の「移」による勅使弔問・葬具支給の拒否とも対応する。第四章「奈良時代の天皇喪葬儀礼―大唐元陵儀注の検討を通して―」は、史料的制約の大きい奈良時代の天皇喪葬儀礼について、唐代皇帝の喪葬儀礼を伝える「大唐元陵儀注」と、平安時代の儀式書とを比較検討することにより、復原の手がかりを得ようとする試みである。聖武の葬送を取り上げて儀礼を具体的に復原し、埋葬後に御物・柩運搬具を焼く儀礼について中国礼制の影響を推測した。
第三部では「喪葬儀礼とその周辺」と題し、喪葬儀礼をとりまく状況についてその特質を明らかにし、院政期までを見通した展開を述べた。具体的には天皇・上皇・三后の忌日法会と遺詔について検討したが、忌日法会の執行機関の性格とその変化は、喪葬儀礼における葬司の性格およびその変化に基本的に合致していることが確かめられた。また遺詔の検討からは、王権の在り方の相違を背景に、伝達方法や即位儀礼との関係において唐とは異なる独自の要素を持っていること、またその内容の変化は、第二部で論じた喪葬令儀礼の実現と衰退の過程を如実に反映していることを明らかにした。第一章「奈良時代の忌日法会―光明皇太后の装束忌日御斎会司を中心に―」では、正倉院文書に残る光明皇太后一周忌のための一切経書写事業に関する史料の分析を通して、奈良時代における忌日法会の運営体制や執行機関、喪葬儀礼との関係性について検討し、葬司との共通点についても指摘した。第二章「七七日と一周忌の仏事について」では、奈良時代から院政期までの天皇・上皇・三后の七七日と周忌の忌日法会について、その展開と特質を、即位儀礼や太上天皇制、母后権力の変化といった要因を考え合わせつつ明らかにした。第三章「古代王権と遺詔」では、遺詔の内容や伝達方法の変化・特質を、唐代皇帝の遺詔との比較を軸に論じた。天皇の皇位決定権欠如を背景に、日本の遺詔はあくまで私的存在に留まること、律令制的儀礼の衰退とともに遺詔が定形化・儀式化すること等を指摘した。
第四部は「礼制受容の諸相」と題し、喪葬儀礼以外の側面から、日本古代における礼制受容の在り方を探った。第一章「唐日律令賤民制の一考察―賤民間の階層的秩序について―」では、唐代の賤民制において礼秩序に包含されるか否かという相違が賤民に階層性を与えていることを指摘した。その上で日本では、律令制導入にあたり唐賤民制の階層的秩序を継受することで礼秩序の導入を図ったが、伝統的な賤民の存在形態から脱却できず、独自の非階層的な性格を維持していたことを明らかにした。第二章「文書を焼く」では、日本古代における文書を焼く事例を集成した上で、山陵祭祀や伊勢公卿勅使の場で宸筆宣命が焼かれる事例、あるいは墓前で贈位記が焼かれる事例は、ともに平安初期の中国礼制導入の過程で受容されたものと推測した。両章とも喪葬儀礼とは直接関連しないものの、その礼制受容に関する画期はいずれも第一部から第三部で論じた喪葬儀礼からの考察と合致する結論になっている。喪葬儀礼から論じた律令制・礼制の受容過程は、喪葬だけに留まらず広く礼制を中心とした諸要素にも当てはまるのであり、今後の特に奈良時代における儀礼史研究には必要な視角となるであろう。