本論文では,『釈軌論』における世親(Vasubandhu)の大乗思想を,(1)経典の伝承の問題,(2)一切法無自性説解釈,(3)仏身論の三点に焦点を絞って考察した.以下に本論文の各章における考察の結果をまとめる.
第一章では,『釈軌論』を中心とした世親思想の研究史を概観し,その成果と問題点を指摘した.特に,『釈軌論』における世親の大乗思想の問題が,その後の世親の著作との関係で重要な検討課題となることを指摘した.すなわち,世親は『釈軌論』で大乗仏説論を詳説しているものの,唯識説やアーラヤ識説は説いていない.では,『釈軌論』で世親が「仏説」として主張している「大乗」とは,いかなるものであろうか.そして,唯識説やアーラヤ識説が展開される,『二十論』や『三十頌』(『釈軌論』より後に書かれた世親作の論書)と比較して,世親思想における『釈軌論』の位置付けはどのようなものであろうか.従来,世親は『釈軌論』時点で唯識論者であったという説や,『釈軌論』より前に書かれた『倶舎論』当時から大乗者であったとの説が提示されており,決着を見ない.そこで,本研究では,『釈軌論』における世親の大乗仏説論を詳細に検討することにより,同論における世親の思想的立場(大乗思想)の問題を考察した.
また,同章では,『釈軌論』に対する唯一の注釈である徳慧の『釈軌論注』を取りあげ,そこに説かれる徳慧の唯識説の特色を,特に『二十論』との関連のもとで論じた.
第二章では,『釈軌論』の大乗仏説論の前半部の議論を考察した.まず,『釈軌論』第四章の,『釈軌論』全体における位置付けを確認した.『釈軌論』第二章では「十二分教」の項目が詳細に解釈されているが,世親はそのなかの「vaipulya(方広)」を,大乗であると解釈する.この「vaipulya=大乗説」が,『釈軌論』第三章にて,声聞から批判される.声聞は,一切法無自性・不生・不滅・本来寂静・自性涅槃という教説(「一切法無自性説」)が,阿含の教説と矛盾するが故に,大乗は仏説ではないと主張する.そして,『釈軌論』第四章は,その声聞からの論難に対する世親の回答に他ならない.そこで,声聞の大乗非仏説の論拠を分析し,声聞が指摘する「一切法無自性説」と阿含の教説との矛盾を具体的に検証し,声聞の大乗非仏説論の根拠を明確にした.その上で,その論難に対する世親の回答を,『釈軌論』第四章の議論構成を分析しつつ,解明した.その結果,(1)世親は了義・未了義の論法を用いて,大乗は大乗内部で了義と未了義の区別があるので,一見すると矛盾すると思われる大乗の教説も矛盾しないことを主張したことと,(2)“大乗の教説は大乗経典の内部で矛盾しないから大乗は仏説ではないとは言えない”と主張したことが,『釈軌論』の大乗仏説論の特徴であるという二点を指摘した.
本章ではさらに,世親が「経典の伝承」について論ずる箇所である「隠没」経の理論を考察した.世親は『釈軌論』で,「隠没」経の理論を展開し,アーナンダは侍者となる以前の約二十年間に釈尊が行った説法(法蘊)の大半を受持していないと批判しており,現在にすべての仏説が伝わっているわけではないと論じている.その議論を正確に読み解き,このアーナンダ批判に基づけば,アーナンダによって受持されていない法蘊に,大乗を位置付けることが可能となることを論じた.『釈軌論』におけるアーナンダ批判は,大乗仏説(釈迦説)を可能にする議論なのである.ただ,『釈軌論』自身はそこまで踏み込んで論じてはないが,『思択炎論』と『入大乗論』では,そのアーナンダ批判を元に大乗仏説論を展開していることを指摘した.一方,声聞乗の論書である『順正理論』は,『釈軌論』を知っており,「隠没」経の理論も『釈軌論』から借用していると判断されるにもかかわらず,アーナンダ批判には言及していない.そのことの意味を,アーナンダ批判が大乗仏説論の議論を可能にするものであることに求め,大乗仏説論におけるアーナンダ批判の意義を明らかにした.
第三・四章では,世親は『釈軌論』で,具体的にいかなる教説を「大乗」説と考えており,その議論は後の世親作の論書とどのような関連を有するのかという問題を論じた.
第三章では,世親の「法」解釈に相当する「一切法無自性説」解釈を考察した.
まず,世親が『釈軌論』第四章後半部で,一切法無自性説解釈に対して二段構えの解釈をしていることを指摘し,その二段構えの解釈が,『釈軌論』のそれ以降での議論に,それぞれ照応することを指摘した.また,『釈軌論』の一切法無自性説解釈中に登場するsmospa'irnampaなどという語句に着目し,『解深密経』で説かれる「三転法輪」の内,第二法輪と第三法輪の相違について再検討した.その結果,その両法輪の相違は「略説」と「広説」の相違と理解できることを指摘した.また,『釈軌論』における一切法無自性説解釈が,『解深密経』に説かれる「三転法輪」の内,「第二法輪」の存在意義を意識したものであろうと指摘し,『解深密経』から『釈軌論』への影響を論じた.
ところで,『釈軌論』では一切法無自性説解釈に際して,「法無我」,「離言」を特徴とする事物,遍計所執性という術語が言及されており,これらの術語は,『釈軌論』の思想的立場を解明するに当たって重要である.そこで,本章では,『釈軌論』におけるそれらの術語の意味内容を,瑜伽行派の文献における所説との関連のもとで考察した.さらに,法無我,離言,遍計所執性という術語や仮設の所依に関する議論に着目して,『釈軌論』から『二十論』『三十頌』への展開についても検討した.
その結果,『釈軌論』における世親の思想的立場に関して,以下の結論を得た.
(1)世親は『釈軌論』にて,遍計所執性[の法]の無と離言を自性とする法の有を内容とする「法無我」説を,声聞乗と大乗を区別する学説として提起している.これは『倶舎論』には見られない説であり,『釈軌論』における法無我説によって,世親は大乗者としての自らの立場を確立したといえる.
(2)ただ,後の世親作の論書である『二十論』や『三十頌』でも法無我,遍計所執性という術語や仮設の所依に関する議論が展開されているが,両書におけるそれらの術語の意味内容は,『釈軌論』で用いられている意味内容とは異なっている.すなわち,『二十論』では,唯識を説示することによって法無我に悟入すると説かれているが,『釈軌論』では,法無我説は,唯識説と結びついたものではない.また,『釈軌論』と『二十論』において,法無我説は,遍計所執性[の法]の無と離言を自性とする法の有を意味する.ただ,『釈軌論』では,「遍計所執性(相)」という術語は,法には言語表現された(名指された)通りの自性は存在しないという意味論的な文脈で用いられている.他方,『二十論』では,遍計所執性[に位置するもの]は,「愚者によって遍計執された能取と所取の自性」であり,認識論的な観点が導入されている.さらに,世親は『釈軌論』にて,「仮設の所依」を主張する文脈で,「離言を特徴とする事物」の存在を主張している.他方,『三十頌』で「仮設の所依」として言及されるのは,「識の転変」である.これも,唯識説に立った主張といえる.
このように,『二十論』や『三十頌』では,唯識説を前提とした上で,法無我,遍計所執性という術語が用いられ,また「仮設の所依」に関する議論が展開されていることが,『釈軌論』とは異なる点である.
(3)しかし,その相違は,唯識説を受容したか(あるいは唯識説を前面に出しているか)否かにあるのであり,法無我への悟入が菩薩の修道の目標であるという世親の大乗者(瑜伽行派の者)としての思想的立場は『釈軌論』にて既に確定されており,それは『釈軌論』でも『二十論』でも一貫している.ゆえに,心識説ではなく「法」解釈に焦点を当てた場合,世親思想には,『釈軌論』~『二十論』『三十頌』に渉って,一貫性が見出される.
本論文第四章では,『釈軌論』の「仏」解釈に位置付けられる「仏身論」を考察した.世親は『釈軌論』で,釈尊(ブッダ)を自性仏(*svAbhAvika-buddha)に属する変化[身](*nirmANa/nirmita)であると主張し,釈尊を肉身であると解釈する声聞と論争を行っている.本章では仏身論をめぐる声聞と世親との間の議論を解明することと,世親が仏身論を論ずるに際して念頭においている経典の出典を考察することを目的とした.
具体的には,まず,「釈尊を変化身と認めない場合の七つの『不合理』」の議論と,「迦葉仏とウッタラの因縁譚」の議論を解読した.その結果,世親が『破僧事』やApadAnaなどに説かれる仏伝に関する声聞乗の伝承を充分に踏まえつつも,釈尊は変化[身]であるという大乗的な立場から,それらの伝承を再解釈したことを論じた.また,世親は『善巧方便経』という大乗経典に言及し,釈尊の「善巧方便」について論じている.その『善巧方便経』を正しい認識手段(*pramANa)と認めない声聞に対し,世親は,声聞乗の経典にも善巧方便説が説かれているではないかと二つの経典を引き合いに出し,大乗経典である『善巧方便経』の所説を擁護したことを指摘した.
なお,このような『釈軌論』の「仏」解釈(仏身論)も,「法」解釈と同様,『倶舎論』においては展開されていなかったものであり,その点からも,世親が大乗者としての自らの立場を明確にするのは『釈軌論』においてであるといいうる.
以上のように,本論文では,『釈軌論』第四章で展開される世親の大乗仏説論を,(1)経典の伝承の問題,(2)「法」解釈,(3)「仏」解釈の三点を中心として解明し,『釈軌論』における世親の大乗思想を論じた.