従来の教科書的解釈では、ベルクソン哲学とは、生の哲学であり、生命の創造性を主題とするものであるとされてきた。分析的な認識や空間的記号の使用など、私達が通常行う認識の仕方は、彼の哲学の本来の主題である持続や直観に即して考えた時、創造的で力動的なものである直観や持続に対する歪んだ陰画として位置づけられることになる。本論文の考察は、固定化され限定されて成立する諸秩序の生成や、不動の記号を用いて認識を構成する知性のはたらきに注目して考察を進める。
私達が通常なしている認識は全て、個物についても現象についても、秩序の反復的再認であり、何らかの秩序を再認すること、一般的なものを再認することで成立している。秩序生成の諸相を考察する本論文では、知覚、身体的再認、知性、道具の製作、仮構機能など、ベルクソン哲学においては、どちらかといえば創造とは異質なもの、創造を見失わせるものとして論じられたはたらきや場面を取り上げる。
第一章では、私達のあらゆる活動の基盤になっている知覚の成立について考察する。ベルクソンは、知覚が、行動の関心によって構成されるもの(言ってみれば、人為的に作り出された秩序)だと見なす一方、ありのままの実在を一部抜き出す形で捉えることであるとも論じる。知覚論において見出されるこのような二義性を整理する。
第二章では再認と知覚について考察する。知覚が行動の関心によって構成されるというベルクソンの主張について、彼が身体的再認の事例について論じる箇所を参照しつつ検討する。再認においては、身体運動の自動化と相即的に、運動の対象の再認も自動化されていく。こうした場面について検討することで、一種の人為的秩序である知覚が、それでも実在の一部を捉えていると、どのような意味で言いえるのかについて検討したい。知性が生み出す新たな行動パターン=習慣は、既存の身体的習慣の組み換えによって作られるしかないという限界をもつ。だが、記号を駆使することにより、知性はもはや外的状況に依存することなく新たな記号を自ら生み出し、自らの思考を展開していく。
第三章ではまず、数学や科学的認識という形で成熟していく知性的認識が、本来は知覚や本能と同様に行動の関心によって構成された秩序であるということを確認する。知性は、既知の固定的な要素で運動を再構成しようとする点で創造的運動を取り逃がしてしまう。しかし、自らの行動とその行動の対象を意識にのぼらせ、自らの行動として統制して行く知性は、未来の行動を計画するものであり、そのため不在の対象を操作することが可能なはたらきである。知性の特徴をベルクソンは道具の製作と記号の使用に見出した。いずれの場合も、知性の特徴となるのは、眼前の行動や状況から離れて、自らと自らを取り巻く状況を反省的に自らと異質なものを捉える点である。こうした働き方が、意識を必然的に覚醒させ、活性化する。けれども知性の限界は、それが求める行動の動機自体を自らは決して与えることが出来ない点にある。知性は動機となる感情が到来した時に適切な行動を組み立てること、与えられた枠組みの中で行動を精緻化することに威力を発揮するはたらきなのである。
第四章では知性的な認識に一見似ていながら、それをはみ出すものとして、仮構機能と芸術について論じる。仮構機能は、知識や行動に関わるのではなく、事象の背後に「人格的」な存在を仮定することで、知性の見出す機械論的なメカニスムとは異なる「心情的」な秩序を見出す。芸術は、直観に似て、もはや行動の有用性に縛られない芸術家によってのみ可能な創作であるが、私達に感情の共有を可能にすることあっても、行動の場面を離れたまま再び私達の行動を導く力を多くの場合与えない。直観は常に再び行動の場面に立ち戻り、新たな秩序の創造へと向かう。
こうして、私達には、様々な仕方で、既存の行動を脱し、既存の行動の関心から離れることで、既存の見方では見えていなかったものを新たに見出すはたらきと方法が与えられている。既存の枠組みを反復することの中で、その枠組みから離れるに至り、新しい行動の枠組みを獲得し、新たな生の在り方を導いて行くことが、まさに生命の姿である。