(1)問題の所在と本論文の課題
1997年末の経済危機以降,韓国では社会経済のさまざまな分野で市場志向の構造調整が進む一方,福祉分野においては,社会支出の急速な増加,国民皆保険・皆年金の実現,権利性を明確にした公的扶助の改革など,「福祉国家の超高速拡大」ともいわれる急激な変化が見られた.それは,<グローバル化のなかの福祉国家化>という点で,今日の西欧諸国における福祉国家の展開とは異なる「韓国的」経験といえる.本稿は,このような韓国的経験を比較論的視点から特徴づけることを試みたものである.
そのため,まず第1に,韓国の経験を分析する際の既存議論の持つ方法論的限界を明らかにした上で,新しい分析視点として「遅れてきた福祉国家化」という考え方を検討すること,第2に,主に1990年代後半以降における福祉国家形成の韓国的経験の具体的事実に接近し,その特徴を「遅れてきた福祉国家化」の図式のなかに捉えること,そして最後に,以上を踏まえながら,韓国のみならず,他の国々,ことに福祉国家化の後発国を比較分析のなかに位置づけるための後発型福祉国家化論の可能性を探ることが,本稿の具体的な課題であった.

(2)既存議論の限界と新しい視点の模索
近年の多くの議論をみると,韓国を比較福祉国家論のなかに位置づける際に,ある種のパターンが見られる.すなわち,韓国の特殊性を強調しつつそれを例外的ケースとして扱うパターンか,あるいは,その特殊性を問題視せず従来の福祉国家論を機械的に適用するパターンである.後者は,Esping-Andersenの福祉レジーム論の3つのレジームを判断基準にしながら韓国の福祉国家を論じているという意味で「ランク付けアプローチ」と呼び,前者は,3つのレジームとは異なる特徴をもつ別の類型を見出しているという意味で「第4モデルアプローチ」と呼びたい.各々の代表的な議論としては,「韓国福祉国家性格論争」(=ランク付けアプローチ)と,「生産主義レジーム論や「開発主義国家論」などの「東アジア福祉論」(=第4モデルアプローチ)が挙げられる.両パターンの議論とも,今日の比較福祉国家研究のメインストリームになっているEsping-Andersenの福祉レジーム論に直接・間接的に依拠しながら韓国(を含む東アジアの諸国)の福祉国家を特徴づけているが,そこには,重要な方法論的問題が共有されている.
そもそも福祉国家の比較分析に対する福祉レジーム論の最も重要な貢献は,従来の福祉国家研究に見られたような量的側面だけに着目する分析方法――たとえば,Wilenskyの収斂論――の限界を克服し,福祉国家の質的差異を歴史的・構造的に分析したことである.そのさい,Esping-Andersenは,脱商品化とそれをめぐる政治的アクターという要因に着目しながら,西欧で福祉国家が3つのレジーム(社民主義・保守主義・自由主義レジーム)として形成・発展していく過程を歴史的にアプローチしている.しかし,「韓国福祉国家性格論争」であれ「東アジア福祉論」であれ,議論の出発点においてそのような歴史的問題は排除され,一方では,3つのレジームとの対照で韓国の福祉国家をランク付けあるいはスコア化しており,他方では,それと整合性のない別の枠組みから第4モデルを導出している.どちらの議論も,西欧とは異なる韓国の特徴には触れているが,福祉国家についての歴史的問題をブラックボックスにしておく限り,けっきょく,韓国の福祉国家の「座りの悪さ」だけを強調することになっている.そういった議論が,韓国の位置づけに成功しているとはいえないのである.
以上のような先行研究の限界を踏まえると,韓国の福祉国家を西欧のそれと比較可能な形で説明するためには,まず,比較分析の出発点として「福祉国家」についての歴史的・経験的概念が必要であること,そして次に,時間軸での視点として「後発性」の概念が必要であることが確認される.本稿では,従来の福祉国家形成の理論を検討した上で,「市場経済の安定装置としての福祉国家」,そして「民衆の政治的組織化の産物としての福祉国家」という,福祉国家化の歴史的条件を基準にしつつ,そこに「後発性」の問題を取り入れるアプローチとして,「遅れてきた福祉国家化」という図式を設定し,そのなかで韓国における福祉国家形成の歴史過程を明らかにした.

(3)韓国における「遅れてきた福祉国家化」の経験
「市場経済の安定装置としての福祉国家」,「民衆の政治的組織化の産物としての福祉国家」という歴史的理解から出発すれば,韓国で福祉国家形成が開始したのは,1990年代後半のことである.この1990年代後半を前後とした転換期の特徴を,「遅れてきた福祉国家化」の二重構図として捉えると,1つは,1990年代後半以前まで,韓国で権威主義的政府の成長優先政策によって福祉国家化のスタートが遅れていた状況を示す「遅滞」の局面であり,もう1つは,1990年代後半以降,ポスト冷戦期のグローバル資本主義という環境のなかで福祉国家化をスタートしている状況を示す「後発」の局面である.「遅れてきた福祉国家化」のこの2つの局面の結合状況から分析した韓国の経験を要約すると,以下のようになる.
1990年代後半まで韓国は福祉国家とは呼べない状況であった.すなわち,国内的にみると,「市場経済の安定装置としての福祉国家」,「民衆の組織化の産物としての福祉国家」の条件を備えておらず,その意味で「前-福祉国家」,つまり「遅滞」の状況であった.ところで,1990年代後半に,経済危機による新自由主義的構造調整と,初めての与野党間の政権交代による民主化の進展という,福祉国家の形成を促すような2つの転換期的出来事が発生した.前者は,福祉国家の諸制度が脱商品化機能と関わりをもつ契機となり,後者は,諸制度の整備や拡充が「上から」のイニシアティブだけでなく,社会勢力の「下から」の社会運動とかかわりをもつ契機となったが,これによって,韓国は,上述の福祉国家化の歴史的条件を備えながら福祉国家を形成していくことになった.既述したように,この時期,韓国は,社会支出の急速な増加,国民皆保険・皆年金の実施,国民の最低生活を保障する国民基礎生活保障法の制定などの改革を通じて普遍主義的な福祉国家の推進を試みた.
ところが,こうして「遅滞」の状況から脱した1990年代後半という時点は,世界的にみると,福祉国家を拡大する時代は終わり,むしろその抑制あるいは縮小をもたらす新自由主義的な政策傾向が蔓延するグローバル資本主義の時代になっていた.この福祉国家形成の経験は,西欧の他の国と比較すると明らかに「後発」である.そして「後発」の状況に起因して,国内的にも,低成長時代への突入や財政拡充の困難,労働市場の柔軟化や組織労働の弱体化など,経済システムの全般的な変化が進むなか,それに対応するかたちで,福祉国家の抑制・再編が求められている状況に置かれてしまった.これは,西欧が戦後の体制対立のなかで「埋め込まれた自由主義」を実現しながら,高度経済成長の成果として「福祉国家の黄金時代」を迎えた経験とは異なる状況であり,実際,福祉国家の拡大に歯止めをかける働きが,韓国の政策理念や制度形成のあり方のなかに発見できる.
要するに,1990年代後半,韓国では,「遅れてきた福祉国家化」の「遅滞」の状況の下で,経済危機と政権交代が契機となって積極的な福祉国家化を推進せざるを得なくなったが,それと同時に,「遅れてきた福祉国家化」の「後発」の状況の下で,福祉国家抑制の圧力にさらされ,その持続的・長期的拡大が困難になっている.「遅れてきた福祉国家化」の2つの状況が結合し,西欧で見られた福祉国家の形成期の特徴と再編期の特徴が同時に働きつつ福祉国家のあり方を方向づけているというのが,韓国の福祉国家が置かれている歴史的現実である.
以上のような現実を念頭に置いて実際の政策的状況に戻ると,上で言及した「韓国福祉国家性格論争」の分析や「東アジア福祉論」の分析が,より豊富な意味を携えて現実にせまってくる.特に,「韓国福祉国家性格論争」で対立している諸議論は,実は,互いに排他的ではなく,むしろ対立しているかのようにみえる諸特徴を併せ持つ政策のあり方を反映しているといえる.また「東アジア福祉論」についても,韓国の福祉国家の歴史的分析のなかでその難点が補完され,従来の福祉国家論との整合性を図っていく可能性が見えてくるであろう.本稿は,「遅れてきた福祉国家化」という時間軸での分析を通じてそこに,韓国福祉国家の位置づけにしばしばつきまとう「座りの悪さ」の主たる原因をみた.本研究の議論を踏まえれば,「ランク付けアプローチ」や「第4モデルアプローチ」などの比較分析から浮き彫りになる「座りの悪さ」については,福祉国家化の後発国というその位置づけから説明するほかないと考えられる.

(4)後発型福祉国家化論の可能性
これまで韓国のみならず日本,さらには他の東アジア諸国の福祉国家に関する多くの議論では,福祉国家化の後発国の歴史的問題を積極的に取り上げることがほとんどなかった.その問題を扱う場合でも,そこには,「先進」と「後進」あるいは「成熟」と「未成熟」などといった一定の価値判断に基づく状況認識が働き,さらに「東アジア」という地域的特殊性が強調されることもしばしば見られる.他方で,後発の問題を排除して西欧で生まれた福祉国家論を機械的に適用しても,結局,「座りの悪さ」が指摘されがちであった.いずれも西欧モデルに引っ張られ,そのなかで後発国の社会が置かれている歴史的文脈については十分に論じきれているとはいえない.
一般的に言って,後発国は先発国からのさまざまなインパクトを受けながら自らの姿を変容させていく.そこには,先発国との何らかの格差を縮めようとするキャッチアップ志向も含まれる.この点では,韓国の福祉国家化の経験も例外ではないだろうが,しかし,本稿の韓国的経験が示しているように,それは,単線的なキャッチアップ過程としては説明し尽くせない.韓国が,福祉国家化の先発国をキャッチアップするに当たって,いかなる福祉問題に直面したのか,その問題をめぐる諸制度や政策がいかなる構造をもっていたのか,そしてまた,そういった国内的状況だけでなく,経済的・政治的要因を含む国際的環境に対して当該社会の諸アクターがいかなる戦略を取ろうとしたのか等々,さまざまな要因とその相互作用が福祉国家化の過程を作り上げると考えるからである.つまり,先発国に単に追い着こうとする過程ではなく,時間軸での遅れた経験が,先発国とは異なる「経路」を生み出し,それが新しい「パターン」として変換されうるということである.とすれば,それは,先進と後進といった価値判断的な状況認識,あるいは東アジアといった地域的特殊性には還元されず,また先発国の経験からの類型論的議論に依るかぎり,座りの悪さとしてしか決着付けられない,いわば独自の「類型」として現れてくるはずである.
本稿では,主に韓国の経験を扱ったが,今後,以上のような視点に基づきつつ,韓国だけでなく日本や他の東アジア諸国をも視野に入れ,後発型福祉国家化論の展開を試みていきたい.