ローマ帝国内の支配・被支配関係におけるコミュニケイションの機能

志内 一興

本論文の検討対象は前27年の帝政開始から292年までの時期の、地中海の古代大帝国ローマ帝国の支配の様態である。ローマ帝国は西欧、地中海沿岸地方から中近東へ至る、現在の国にすると五十カ国近くを包含する大帝国を形成していた。国家間の垣根が低くなり、国家がその存在の再定義・再構築を迫られ、また中でもヨーロッパ連合という壮大な実験が継続している現今、我々の目から見て貧弱な通信・交通手段しか有していなかった古代ローマ帝国が、その多様で広大な版図を如何にして束ね、支配・統治していたのか。この問題を考え、見通しを示すことは、新しい国家像を模索する現代世界に対し、古代ローマ帝国研究がなし得る貢献の一つと信じる。
ローマの支配を考える上で今回着目したのが、ローマがその意志を帝国各地に伝達する際活用する「公文書」である。帝国の領域に居住する人々にとり、多くの官僚的人員を派遣しないローマ帝国は多くの場合、こうした文書の存在を通じて姿を現すものと想定できるからである。それゆえその検討は、ローマの帝国統治の実際を検討するにあたり恰好の素材を提供するものと想定できるからである。
さて本論文で検討される具体的内容は以下の通りである。
まず第1章において、本論文で検討される「公文書」とは何を指すのかを明確にする。また本論文の問題設定を更に具体的に提示する。
第2章では公文書の中でも「布告」と呼ばれる文書に着目し、その歴史的展開、性格、そして発給・流通メカニズムの解明を目指す。またその過程で文学・法・碑文・パピルス文書史料に散在している布告文書の整理を試みるつもりである。また扱われるのは皇帝の発給する布告文書にとどまらず、属州総督の布告文書も検討対象となる。
第3章では「勅答」と総称される皇帝発給公文書に関する検討を行う。「勅答」の発給は、本論文の題目に含まれる「支配者・被支配者間のコミュニケイション」において中心的な意義を有する行為であり、最も詳細な検討が行われることになる。また第2章と同様史料整理を行い、また属州総督の同様の文書発給も視野に収めて検討される。またそこで本稿の年代設定の理由を説明する予定である。
第4章では上の諸章の検討を踏まえ、そうした公文書をローマ帝国がいかなる思想的背景に基づき取り扱ったのか、その歴史的展開を含めて検討する。
第5章では逆に、以上のような手続き・思考に従い発給されたローマ帝国の公文書が、帝国住民によってどのように受け取られ、どのように活用され、機能していたのかを検討する。
そして第6章において、それまでの検討を踏まえ、ローマ帝国における「公文書」という事象を通じて析出される「コミュニケイション」の実態を踏まえ、それがローマ支配の中で如何なる機能を果たしていたのかに関し検討を加える。その上である程度の展望を示すつもりである。
以上が本博士号請求論文の概要である。本論文のテーマに沿った研究は、我が国においては参照すべき先行研究がほぼ皆無であり、用いられる史料も我が国において紹介されたことのないものが大多数である。また多くの近年発見されている新史料も含まれるため、史料の証言内容を明確に示すべく、基本的作業として史料の整理、及び重要な史料の提示と邦訳も多数行われる。その作業自体も、本論文の貢献の一つであると考えている。

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