明末の儒者、劉宗周といえば、一般的に明末宦官一派の勢力に対抗して活躍、明朝の復興に努力したがならず、絶食して自殺した「忠義」の儒者として知られている。また著名な明末清初の学者、黄宗羲の師で陽明学右派の系統を引き、「気」を中心とする独自の哲学をたてた人物としても描かれている。そのほかにも修養法の根本として「慎独」を主張し、名教節義を重んじたといわれる。確かに彼の名はよく知られ、中国近世思想史を語るときに必ず取り上げられる思想家であるが、その思想史上の位置づけと意味については、まだ検討すべき部分があるように思う。そこで本論文は劉宗周の学問世界やその周辺の人物たちの検討を通して、明末清初期の江南地域の知識人たちの学術・交遊とその性格の一端を考察してみようとしたものである。そして本論文は、明末清初という中国近世社会の一大転換期に焦点を当て、この動乱期に劉宗周とその周辺人物たちが、その学術及び人的交流を通して、どのような作用を発揮しえたのかを分析し、またこの時期の思想界を総合的にとらえた際に通底する儒教理念の要素の抽出を試み、その分析から劉宗周思想の本質にも再検討を加えようとした。本論でとりあげた劉宗周の学問世界と人脈は、一言でいえば、劉宗周個人において孤立してあるものではなく、同時代を生きたその周辺人物たちとの人脈関係の中で形成されたものであった。基本的には、劉宗周の学問世界が人脈関係を通して浙江・江蘇地域で展開・発展したということである。とりわけ浙江地域において、さまざまな人脈関係は彼の学問世界を支えている柱であり、一人の人生においてその最も基本的な関係である、家族関係を出発点として、彼の学問世界は師友関係および門人関係を通して次第に自己思想の構築へ向っていく。本論文では、このような劉宗周の学問世界がどのように形成され、展開されてきたかを検討した。確かに劉宗周門人集団の主要な性格と特徴は、浙江・江蘇という狭い地縁・人脈をもとにしたもので、しかも思想史的には、その構成員の性格は極めて多様な人間群像の集合体であるとみなさざるを得ない。
事実、劉宗周思想に対する従来の多くの研究は、劉宗周の思想を主に哲学的或いは宋明理学とよばれる伝統的学問分類の方法(朱子学・陽明学などの分類)によって解釈してきた。すなわち、彼の思想をつくり出した時代性・地域性及び経世思想の側面を究明しようとする研究よりは、彼の哲学的テーマ(慎独・誠意・理気・天命などの観念)だけをめぐって問題の関心が集中された。そしてそのような結果として彼を「真の陽明学者」・「陽明学右派」・「新陽明学者」・「朱王折衷論者」・「新周子学者」などに評価し、その思想の概念を捉えようとする傾向が強かったのである。ゆえに、この論文はそのような研究環境の反省的考察から企画され、劉宗周に与えられた時代性や地域性に注目し、彼の思想形成の背景に置かれた家庭環境やその周辺人物たちとの関係、すなわち諸人脈関係を中心として、劉宗周思想の実像をとらえようとした。
一方、本論文の構成や各章の小題目は次のようである。本論文の始めの部分では、問題提起とともに、本論文の課題・構成や従来の研究動向に対する回顧を叙述した。第一章「人物と家族史―学問世界の背景」においては、劉宗周の子劉汋と姚名達とが記録した『年譜』および黄宗羲の『子劉子行状』を基本資料として、劉宗周の成長過程とその家族史を考察した。第二章「劉宗周とその周辺人物たち」では、劉宗周の交遊者、門人と劉宗周との交渉のあり方を検討した。第三章は、「劉宗周と地域及び明末思想界」について検討した。すなわち、この章では劉宗周の活動舞台である浙江地域(特に浙東地域)に焦点を当てて、その浙江地域と明末思想界の様相について論じた。第四章は、「劉宗周と宋明儒学との関係」について論じた。第五章においては「劉宗周の学問活動とその志向」について論じ、終わりの部分では、以上の検討や分析を通して明らかになったことをまとめ、劉宗周思想の実像を指摘した。