「書く人」の肖像:アレクセイ・レーミゾフの文字の王国

小椋 彩

「書く/描く」という「行為」自体がレーミゾフの本質をなすという認識から、レーミゾフを「書く人」と位置づけ、その「執筆」の意味、「自己像」と創作の関わりについて、近年の選集刊行などを踏まえて検討する。

Ⅰ「民衆の神話の再創造」再考:『ポーソロニ』とそれに続くもの

「フォークロア的作品」を「剽窃」と非難されたことに端を発して書かれた名誉回復のための公開書簡は、レーミゾフの「声明文」と目される。ここで明示された「民衆の神話の再創造」に対し、象徴派の巨匠イヴァーノフの影響はこれまでに指摘されており、実際、神話的童話『ポーソロニ』は、童話の「受容者」である幼児と、「神話創造者」イヴァーノフに捧げられた。しかしレーミゾフが実際の範とするのはあくまで「民俗学者」であり、理論と実践の乖離は、作家の複雑な自己像形成に関与している。その一方で、世界の不条理の根拠をレーミゾフはグノーシス、およびこれに由来するボゴミール教に見出す。キリストと表裏を成す堕天使には、出自に対する罪悪感や「創造者」的な「作家」の呼称への違和感が投影されている。彼の「注釈の重視」は「出典の正確さ」よりも「出典訴求の不可能性」を示唆する。そのテクストは作者不詳のアポクリファの生成をなぞっており、この意味で彼は作家ではなく語り手、つまり「創造者」を騙る「異端」と自己を規定することになる。

Ⅱ『鳴り止まないタンバリン』、「原典」と「ヴァリアント」について

「小官吏もの」として括られてきた『鳴り止まないタンバリン』(1910)は、「改作」や「ヴァリアント」に関する問題を内包する。発禁になったプーシキンの物語詩をパロディ化することで、主人公はレーミゾフ自身やプーシキン、また「小官吏」の清書作業は、芸術家の執筆の営為に重ねあわされている。検閲に代表されるあらゆる権威的構図のパロディ化を行うことで、レーミゾフは「パロディ」のパロディ化、すなわち硬直した歴史的源泉主義や、その対極を成すロマン主義的な独創性神話に挑戦する。その挑戦の拠り所とは、聖像画の「コピー」が示唆する、民衆の自由な想像/創造力だった。

Ⅲ『書かれたロシア』、あるいは本について

『書かれたロシア』(1922)には、手紙や銘文、聖書の写しや数式、日記、占いの言葉など「書面」のあらゆる形が蒐集、提示されている。私的な思い出を複数の人間に「共有」させることで、個と集団とは融合される。古文書の引用の断片は、可視的な物質性のうちに、記憶や精神性といった不可視な価値を宿す。忘却に「書く」行為で抗う、これは「集団的な記憶」についての書だが、同時に、「本の本質」についての思索をも促す。レーミゾフにとって、世界は紙片のうえに現出する「可能性」のみを有する。その可能性を追うことがレーミゾフにとっての「書くこと」であり、したがって描かれるべき「ロシア」も、調和的なある全体ではなく、無用の破片として表象される。一貫性のない備忘録として総括を拒否するこの本は、レーミゾフの「民衆の神話の再創造」のモデルである。

Ⅳレーミゾフの「文字」と「画」:「書く」ことと「描く」ことについての言説をめぐって

亡命後、自分の人生に多くを取材するようになった作家は、異なる著書に同一のテーマ、モチーフを断片的に重ねて複合的なテクストを綴りながら、自らが「書く者」の形象と重なっていく。この意味で、新しいジャンルの創出は「書く行為」に直結していた。『写字生―カラスの羽ペン』(1949)からは印刷に対する否定的スタンスや「文字」への執着を読み取ることができる。カリグラファーかつ独創的な画家レーミゾフにとって、文字と画とは「書く/描く」行為によってつながっているが、行為の身体性は行為者を抑圧からの自由、「無意識的」状態へと導くものでもある。彼のテクストが非一貫性、非線状性、反書物性に向かったことも、「書く」という実際的行為の当然の帰結だった。「書く/描く」ことは、祖国引き離された作家にとって、拘束から解放される切実な手段となる。しかし一方で、どんなに書いても「書き尽くされる」ことはない。「蜘蛛の巣」状のレーミゾフの文学テクストは視覚と有機的に結びながら、私たちに彼の多元的世界の一端を垣間見せる。

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