英学会話書による近代語研究

常盤 智子

本論文では、第1章ローマ字資料であることを利用した研究、第2章版の違いを利用した研究、第3章同時期の国内資料との比較研究、第4章資料研究、という四つの観点から、英学会話書の研究の可能性を探った。

第1章ではローマ字表記の利点に注目し、表記・音韻の問題を扱った。
1-1では、E.M.サトウ著『会話篇』の音節「エ」の表記に五種類(e、e、e、ye、ye)の書き分けがあることに注目し、シラブルを単位とした分析を行い、その分布から「ye」の音声が[je]であった可能性を推定した。
1-2では、『会話篇』の初刷本、再刷本、サトウの『会話篇』以外の著作にみられる「エ」の表記を調査・検討した。そこから、サトウ個人としても、著作の刊行年に伴って表記方針が変化していくことが読み取れた。
1-3では、この問題をさらに深く掘り下げて、ローマ字遣いの信憑性の問題をとりあげた。同時期の日本語研究者の表記や、ローマ字表記についての論争、様々な音声資料などをみていくことにより、表記と音声の乖離の様相を確認した。著者の事情という資料の外的な要素も音価推定の状況証拠となりうる例を示した。

第2章では、版の違いを利用して、書誌研究を前提とした用語や語法の比較を試みた。
2-1では、英学会話書の嚆矢といわれるJ.リギンズ著『英和日用句集』の書誌研究を行い、唐話資料『南山俗語考』が『英和日用句集』の底本となっていたことを推定した。また、やや混乱のあった『英和日用句集』諸版の再整理を行い、研究の基盤づくりに取り組んだ。
2-2では、2-1を根拠に、用語研究の一例として、人称代名詞の問題を考え、一人称・二人称代名詞の幕末から明治におけるうつり変わりを比較検討した。
2-3では、さらに、『英和通弁手引草』という国内で出版された英学会話書が『英和日用句集』と関わりが深い資料であることを実証し、複数の観点から、その用語・語法の特徴を比較した。
資料間の関連と、内容の一致を根拠に異版や関連資料の言語現象を比較することの有用性を確認した。

第3章では国内資料との比較を行い、英学資料と国内資料の異なりがどのような実態であるのかをみた。
当時の国内口語資料のひとつである三遊亭円朝演述『恠談牡丹燈籠』と、B.H.チェンバレン著『日本口語便覧』「実践編」所収、ローマ字書きの『BOTANDORO』(第一回と第二回)との異同を記述し、そこにみられる口語の具体相を記述した。

第4章ではイギリスの図書館において探索した資料を提示した。
4-1では、まず、ロンドン大学SOAS図書館蔵本における『会話篇』への書き込みを検討し、この資料が、初刷本から再刷本へと刷を改める際の、契機となった資料であることを指摘した。
4-2では、ケンブリッジ大学図書館アストンコレクションにおける、E.M.サトウ自筆資料「日本語会話練習帖」を紹介した。節末に常盤による翻字を掲載した。

諸問題に対して、できる限り、資料の書誌研究を重視し、内的な実証と外的な根拠を求めた。これらの作業を通じ、通説にも混乱があることを確認し、それらを正しく位置づけた(2-1)。加えて、通説の根拠を補強した(1)(2-3)(4-1)(4-2)。
また個々の問題に対して、徐々に視点を拡大する手順で検討を行った。出発点となった個々の問題は、微視的な問題であるが、同時にそれらが、英学会話書、近代語、日本語史へと繋がっているという巨視的な視点を念頭におくことを意識した(1-1→1-2→1-3)(2-1→2-2、2-1→2-3)。しかし、内的な実証を重視したために、調査資料を限定せざるを得なかった。今後、未見の資料を含め、研究を進める必要性を述べた。

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