本稿は、近代日本における宗教概念の展開を、宗教者の自己理解を中心に論じたものである。

第I部では宗教概念の歴史性に着目する研究が近年行われてきていることについて先行研究を概観し、またそれが近代日本という場に即してどのように行わうるかという研究の視座に関わる論点を整理した。また武田清子の日本キリスト教思想史の方法論について批判的乗り越えを試みた。

第II部では、まず宗教が開化あるいは道理や道徳的な側面との関わりにおいて論じられていた局面について触れ、それが自然神学的なキリスト教理解の提示を受けたものであり、またそうであるが故に伝統的な儒教的世界観と呼応する側面があったことについて、中村敬宇や高橋吾良の論説を取り上げて論じた。またそうした宗教理解を言語化して広く訴えようとする姿勢がキリスト教徒や仏教徒に見られたことについて、特に仏教演説という企図に即して考察を行った。

第III部では、学問による宗教への批判を一つの契機として開化と宗教を調和の中に捉え、論じることが合意を得られなくなっていったことを受ける形で、独自なものとしての宗教の内実が模索されるようになる局面について小崎弘道や中西牛郎の論説を取り上げて論じた。そしてその内実の探求の営みにおいて、一方では宗教の本質が世俗性とひとまず区別されるところにある超越性との関わりに求められるようになっていくことを中西や植村正久の議論に即して確認し、他方においてそうした宗教が現実社会とどのように切り結ぶのかという点については道徳の遂行に焦点が合わせられる面があることについても触れた。

第IV部では、まずそのような道徳と宗教の位置関係が内村鑑三不敬事件や教育と宗教の衝突問題を焦点として改めて問い直されることについて触れた。そこで単にキリスト教を否定し去ろうとした井上哲次郎の議論に加えて、道徳から逸脱しない限りにおいて宗教を承認するという立場も見られたことを中西牛郎の議論を取り上げて論じた。また他方において宗教はそうした道徳を主体的に行わしめるものとする立場が例えば植村正久によって主張され、そこで植村はキリスト教解釈に立ち入って道徳と宗教の位置関係を措定するが、同時に具体的な徳目の内容を争点としないことによって、結果として両者の立場が併存するようになったことについて述べた。即ちそこで道徳と宗教は切り分けられ、異なる領域を取り扱うものとして捉えられるようになったのであり、またそれを再帰的に取り込むことによって、宗教を宗教の領域において探求していくという回路も開かれ、それは例えば神学研究という形で行われるようになったことについて論じた。

以上近代日本において宗教が他の何ものでもなく宗教として捉えられるようになっていく過程の一端について考察を加えた。