本書では、中世の寺院の実態を明らかにするための一つの試みとして、寺院と室町幕府の関係を具体的に分析する。
第一部「室町幕府による仏教界編成」は、室町幕府が多くの宗派、寺院、僧侶をどのような枠組でとらえ、編成していたかを分析するものである。
第一章「足利将軍家護持僧と祈禱」では、護持僧の基本的役割が月ごとに番を編制して将軍御所で行う祈禱であったこと、構成は山門・寺門・東寺の三流からなるが、山門の三門跡(青蓮院・妙法院・梶井)は補任されないという点が天皇護持僧と異なることを明らかにした。護持僧を統括したのが「護持管領」に任じられた三宝院門跡で、祈禱の担当月を交換する際の調整にあたったりした。
第二章「禅宗の祈禱と室町幕府-三つの祈禱システム-」では、五山官寺機構、将軍家祈願寺よりも、将軍家菩提寺である相国寺を中心とする体制が主に機能したことを明らかにした。祈禱を統括したのは鹿苑僧録と蔭凉職で、将軍の側近である後者が中心的役割を果たした。
第三章「室町幕府年中行事書にみえる僧侶参賀」では、将軍家護持僧と山門派の三門跡は年始の参賀の日が別々に設けられたこと、禅宗で参賀を行ったのは五山の住持ではなく足利氏ゆかりの寺院を中心とした御相伴衆だったこと、その他の諸宗では律宗が重視されて浄土宗もその範疇としてとらえられたことなどを明らかにした。
第四章「足利将軍家祈願寺の諸相」では、祈願寺は将軍家・幕府のための長日祈禱・定例祈禱を基本的機能とすること、宗派は顕密系・臨済禅が多いが、曹洞宗・律宗・浄土宗・法華宗など多岐にわたること、鎌倉府管轄国内が対象外となり、やがて京都とその周辺に集中するようになったことなどを述べた。
第二部「京都の寺院と室町幕府」は、特定の寺院や空間の側に立って室町幕府との関係を明らかにしようとするものである。
第一章「足利氏の邸宅と菩提寺-等持寺・相国寺を中心に-」では、等持寺は直義邸の付属寺院として創建されたもので、直義の失脚後に尊氏・義詮父子が整備したこと、室町殿に移った義満が創建した相国寺には等持寺から法華八講が移されたが、義持が三条坊門殿に移住した後は、法華八講を行う等持寺、将軍・公方の塔所が設けられる相国寺というように、二つの菩提寺がそれぞれの役割も持って存続したことを明らかにした。
第二章「北山と北野-義満の構想-」では、義満の北山殿を中心とする空間は、東には足利氏が深く信仰する北野社、西には足利氏の墓所等持院を中心とする空間を従えていたことを述べた。義満は北野社参籠などを頻繁に行って北山と北野を強く結びつけ、義満死後も北山の寺院から北野万部経会に向かうことが年中行事化され、二つの空間の関係が維持された。
第三章「清水寺・清水坂と室町幕府」では、幕府が慈心院を将軍の御師とし、祈禱を通じて清水寺と直接結びついたこと、幕府と関係の深い禅宗と律宗が清水寺とその門前に入り込んだことに注目した。五山・十刹における観音懺法のうち、五山之上南禅寺の分が清水寺で行われたほか、清水寺門前に創建された禅宗の宝福寺が将軍の清水寺参籠の際宿所とされた。清水坂に創建された神護寺(水堂)は法勝寺系の律宗寺院で、将軍の御成を受けたり、幕府のために祈?を行ったりした。
第四章「東岩蔵寺と室町幕府-東山の廃寺考-」では、南禅寺東の山中にあった東岩蔵寺が真言宗岩蔵流の本寺として幕府と結びついて祈願寺とされ、尊氏の像と遺骨が納められたことを述べた。義満とその側室西御所の帰依を受けた良日が寺内に真性院を創建したことにより大きく発展し、将軍の加持を行ったり将軍御所へ参賀を行うなど幕府との結びつきを強めた。
本書において検討した幕府による仏教界編成は、将軍家護持僧の構成や相国寺中心の体制などに見られるように限定的なもので、公武統一政権としての幅広い編成に対して武家の独自性が現れたものと考えられる。地域的にも京都中心という限定が見られ、結果として京都の寺院の重要性が高まった。