現代世界に広がる心理学的・心理療法的な思想や実践の総体は「心理主義」とも呼ばれることがあるが、本論ではその総体を「セラピー文化」と名付け、その文化的意義を、現代日本における、ネットワークビジネス、自己啓発セミナー、トラウマ・サバイバー運動という3つのフィールドから明らかにしていくものである。
ネットワークビジネスは、無限連鎖的に販売員を増やしていく商法であるが、大衆向け心理学書によく見られる「全て前向きに物事を考えればそれは現実となる」という考え方を最大限に活用した運動でもある。自己啓発セミナーは、セラピー的技術を詰め込んだ数日間の有料のイベントであり、集中的なグループ体験によって、自己の殻を打ち破ることを説いている。トラウマ・サバイバー運動とは、トラウマを抱えているがそれを乗り越えようとして生きのびている人たちによる、自助グループを中心とする動きであり、回復のために、ミーティングによる話し合いと、霊性への意識が必要であるとした。
ネットワークビジネスは、動機づけの心理学の発想を活用し、自分で成果を生み出していくことを説くので、きわめて自己責任強調的である。自己啓発セミナーではさらに、自己の人生にふりかかることは全て自分に責任があるとさえ説いた。また自己啓発セミナーは、個人は社会によって抑圧されており、それをグループ体験によって解放すべきだと考えたが、社会構造に対しては結果的には同調主義的であった。トラウマ・サバイバー運動も、社会的抑圧からの自己の解放を説いたが、責任観については逆に、トラウマという被害を受けたのだから、個人はその被害について責任はないと考えた。そこから、トラウマ・サバイバー運動は、社会批判的なトーンを持つに至り、社会的な同調を「病」とみなす動きさえ現れた。
3つの運動の歴史を踏まえて現在確認できるのは、近代社会における公共的な自己こそが病んでおり、霊性の枯れた状態であるのだから、それを回復しなければならない、という意識の興隆である。従来のセラピー文化論では、セラピーは、個人を現代社会に適応させて統制するものだと主に解釈されてきた。しかしセラピー文化の中から、それだけにとどまらない、社会変革への動きも出現してきているのである。
セラピー文化はまた、その主観的倫理と、コミュニケーションによる他者および共同性の理解、そして時にはイニシエーション的機能によって、現代社会において宗教の代替物としても機能している。