大慧に於ける生死への契機は自分の体験に基づくものであり、生死の問題を積極的に解決しようとする態度が公案禅の強調へ繋がったと思われる。生死問題は淨土思想とも関連するが、大慧自身はあくまでも唯心淨土を堅持したと思われる。只、仏教式葬式が盛んだった宋代に於いて、追薦供養の時には大慧も西方淨土往生を説く場合もあった。しかし、それはあくまでも世俗人、中?下根器の人のための方便だったと思われる。
大慧が公案禅を以て弟子を指導し始めるのは46歳頃からであるが、大慧における公案禅は次のような長所を持つものであった。(1)公案は意識を集中させる。(2)公案は疑団を誘発させる。(3)公案禅は易行道である。
大慧が重視する公案はやはり無字公案である。本来の趙州の無字公案は随、唐代に行われた仏性論争がその背景にある。特に、唐代には禅宗でも仏性に関する問答が多かったが、(1)その殆どが馬祖系の僧達によって行われており、(2)宋代になると、姿を消している。無字公案は宋代になると、無字公案の後半部を切り落す僧達もある反面、一部の僧はそれを非難する。しかし、大慧がひたすら無の一字だけを参究する解釈を確立すると、以後それが禅門の中心となった。
ところで、趙州には有字の問答も存在するが、有字の問答は(1)曹洞宗系統の文獻だけに収録され、(2)正統として認められなかったことが分かる。随って、「一切衆生悉有仏性」の伝統的な考え方を持っていた曹洞宗系統から宋代に作り上げた可能性がある。
大慧示寂後、公案禅は中国の禅林を掌握しただけではなく、韓国、日本を初めとする東南アジア全域に広がった。公案禅が伝わる以前の高麗禅門の伝統教団は九山禅門であった。九山禅門の開祖の殆どは入唐して馬祖系の僧を嗣法しており、故に、無事禅の傾向が強かった。九山禅門の思想が良く現れている『禅門宝蔵録』を検討してみると、(1)華厳を教学の頂点に置き、華厳に対する禅の優越を主張する「徹底的な教外別伝」を主張する。(2)そして、その禅の内容は達磨を宣揚する如来禅であることが分かる。
伝統教団である九山禅門が徹底的な教外別伝を主張することに対して、智訥、慧蝶を中心とする修禅社では禅教一致を主張した。又、公案禅を導入するのも修禅社系列である。まず、智訥は李通玄、宗密の影響を受けて頓悟漸修を主張するが、大慧の公案禅が導入されると、上根器のためには公案禅を、中?下根器のためには頓悟漸修を勧めるようになる。智訥と異なり、慧蝶には延寿の影響が大きいが、特に『宗鏡録』から大きな影響を受けている。しかし、慧蝶も公案禅を最上位に位置づける。
智訥と慧蝶の公案禅は、大慧の影響を抜きにしては語れない。特に無字公案の影響が大きく、慧蝶は『狗子無仏性話察病論』を撰述している。更に、大慧が提示した公案参究の方法を「十種病」と名付け、「大慧公案禅のすばらしさは十種病を除去させた所にある」という。しかし、大慧が無事禅に対する批判から公案禅を確立したことに対して、智訥と慧蝶には無事禅の影響が残っている。それが大慧公案禅と智訥、慧蝶の公案禅の差だと言える。