本稿の目的は、19世紀台湾の「風俗」事象の考察によって、台湾が一つの社会として規範・秩序・道徳面である種の慣習を形成していく過程―すなわち「教化」の過程―を理解することである。そのために主として、〈1〉19世紀の清朝官僚と教育者、19世紀末の明治期に来台した日本人の台湾に対する認識の中に表出する風俗観、〈2〉清朝の風俗改正策と、移風易俗という時代的な要求に対して、教化を受ける側の先住民がとった対応と文化の変容、〈3〉知識人がどのように風俗理念を広め、成功したかについて、その実証分析を行った。同時に、人倫道徳秩序、経済生活倫理、文教を最良とする職業志向、宗教思想と信仰などの方面から、台湾の道徳秩序の構築過程と変容の実態について考察を行った。かかる考察を通じて、台湾の社会秩序は、必ずしも清朝の官僚、台湾の漢人、平埔族、生番、さらには日本人といった族群間の対立的な関係によってのみ、あるいは儒教を推進した清朝と、近代性を持ち込んだ日本という文明対立図式によってのみ、理解され得るものではなく、台湾社会(諸政権によって受動的に形成された台湾島の人々)の選択と受容の過程として理解されるべきことを、本稿は提示している。
具体的には竹塹社を事例として、清朝の教化とその受容の過程を、フィールド調査によって収集した史料をも多分に用いて分析し、地方官や知識人が番人に求めた宗族形成、具体的には姓を持ち、異性不養、同姓不婚などの原則の維持を求めたが、現実には姓は受容しても、異姓のもので宗族形成を行うなった結果、異姓宗族が多く見られるなど、王朝の教化は選択的に受容されていた実態が明らかになった。さらに教化は、儒教的価値観のみならず、例えば道教・仏教においても尊重された惜字の習慣を徹底させるという点においては相当程度の成功を見、教化ということが受容側の台湾の人々の選択的な受容によることが明らかになった。こうした台湾の社会を、支配者すなわち滿清帝国、日本帝国などがいかに見ていたかを、風俗をキーコンセプトとして地方志その他の史料を用いて検討したとき、清朝知識人からは、中国本土の福建などと比較して台湾は富んだ豊かな土地ではあるが、徳のない風俗を有していると考えられ、また近代合理性を台湾にもたらした日本植民地支配者たちは、在来の様々な宗教的・慣習的習俗を迷信のなせるわざであると理解し、これを教化すなわち改善しようとした。
そもそも族群が分立していた台湾は、このように、文明すなわち支配者側の認識・風俗改善・教化といった働きかけに対し、19世紀から20世紀初頭にかけて、これを選択的に受容していったが、その過程を通じて、台湾はこれに対応する道徳規範と風俗を共有するひとつの地域として成立していったのである。