中国では魏晋南北朝時代に、志怪と呼ばれる怪異の記録が大量に書かれた。そして志怪書は、現在中国小説史の冒頭に位置づけられている。しかし、志怪書は、本来は小説としてではなく、歴史書として書かれていたことが既に指摘されている。本論文は、志怪書及び当時の怪異に関する記録が何故書かれたのかを探究し、また小説ではなかった志怪書が、後に小説として受容された原因を探ろうとするものである。

本論文はII部からなる。第I部では、志怪書が書かれる前から存在する、歴史書の中の怪異記録「五行志」と志怪書を比較することで、志怪書の史書としての性格を明らかにする。

五行志は国家の命運に関わると考えられた災害と怪異を記録する。それに対し、志怪書は、五行志とは「異」とする現象が違い、専ら個人的な怪異の体験を記録する。これは、当時、国家中心主義である経学が衰え、史学が独立し、歴史と見なす範囲が拡大したこと、また、身近な怪異を直接記すという風潮が形成されたためである。このような怪異を記す志怪書は劉宋以降衰えるが、隋代に一度復興した後、唐以降は廃れていく。そして、志怪書が持っていた要素は、唐代以降の志怪小説、伝奇小説、筆記に一部分づつ引き継がれる。また、志怪書は『隋書』「経籍志」で史部雑伝類に分類される。これは、雑伝書は、ある主題に関わる人物の伝記を集めた書である。志怪書は人物を中心に記す紀伝体の書式で書かれていたため、怪異をテーマとした雑伝書と見なすことができた。つまり、志怪書は、身近な怪異をテーマとした人物伝記集という歴史書なのである。

第II部は、当時の宗教や信仰に関する怪異記録について、三つの話題を取り上げる。

一つ目は中国における天や神に関する概念である。天は抽象的であり姿を見せないのに対し、神は姿形を持っているという基本概念自体は、中国古代より変わっておらず、道仏二教も古い概念を利用していた。二つ目は歳時儀礼の由来に関する、死者を巡る物語りについてである。儀礼の性質が元々払いや祓禊にあるため、死臭のする物語りが求められたこと、また当時の歳時記が書かれる前に志怪書にこの種の歳時儀礼の由来の話が記されていたことが、歳時記編纂に繋がることを指摘した。三つ目は、宗教者の伝記に見られる出生の不思議の記録について検討し、このような記述が仏教徒から道教徒に伝播していったこと、また中国古代の感生帝説話とは意義が違い、大衆化してしまっていることを指摘した。

このような記録が魏晋以降見られるようになったのは、当時、史の範囲の拡張に伴い、民間信仰に関心が持たれ記録されるようになったこと、また宗教者が自ら記録を残すようになったことが大きい。しかし、それ以上に重要なのは、後漢以前の宗教は、国家や社という単位で信仰するものだったのが、魏晋以降、道教や佛教という、家族や個人という単位で向き合う新しい宗教が勃興したことである。個々人の宗教への関心が高まりが、信仰に関する怪異記録の背景にある。

魏晋南北朝時代において、志怪書をはじめとする怪異記録は史として記された。志怪書をはじめとする魏晋南北朝の怪異記録は、それ以前の怪異記録とは、内容も、記録された意図も異なることが明らかになった。そして、これらの怪異記録が書かれた背景には、史の範囲の拡大による、史書の増大があった。

また、志怪書は後に小説的な受容がなされた。フランス語の小説を表す単語、histoireが歴史という意味から派生しているように、歴史と小説は元来密接な関係を持つ。しかし、全ての史が小説となる訳ではない。例えば編年体で編まれた歴史書、また紀伝体の歴史書にある種々の表や志といった部分は、物語りを自動演奏できない。なぜなら、そこには人間が息づいていないからである。小説は人物の物語りを求めている。また、怪異、あるいは怪異が拡張・変質した「奇」という要素だけでは小説は成り立たない。物語りには主人公が必要である。雑伝書でもある志怪書には主人公が存在した。

志怪書は怪異の歴史記録として書かれており、決して小説と同一視してはならない。しかし、小説的なものとして、小説史にも居場所を持つべき書物なのである。