本論文は、古代日本における中国文化の受容様相の考察を通して、宮廷文芸と漢詩の関係を究明しようとするものである。本論では、第一部と第二部に分けて、それぞれ奈良天平期と平安朝に焦点をあて、「風流」と「省試詩」という二つの視点を中心に研究考察を行なった。
第一部「奈良天平期における風流の受容」は、天平期の文献に集中的にあらわれた「風流」の問題をとりあげ、唐の「風流」と比較することを通して、同時代的文化受容の可能性を検証したものである。第一章「風流と遊宴」では諸文献における風流の用例を分析し、唐代にいたるまでの語義の変化を概観したうえで、士大夫と遊宴の関係から、風流の文化理念がいかに成立していったかを考察した。
第二章「風流と踏歌」は、宮廷踏歌の受容を手がかりに、天平期の風流と盛唐の風流の関連性について考えてみた。聖武朝の踏歌・歌垣が、唐の先天・開元年間の宮廷儀礼を取り入れていたことを確認し、踏歌の主役が「風流有る者」(『続日本紀』天平六年二月一日等)と称されたのは、盛唐宮廷の風流精神の影響を受けたものであると論述した。
第二部「平安朝における宮廷詩と省試詩」は四章からなり、主として平安朝と唐代における省試詩(試帖詩)を比較し、両者の類似と相違を明らかにすることを通して、平安朝の漢詩文芸と唐代のそれとの根本的な性格の違いを浮き彫りにするものである。
第一章「『経国集』の試帖詩考」は、『経国集』巻十三、十四にまとまった形で残っている二十三首の試帖詩をとりあげ、形式と内容の両面から唐の先例の受容を把握し、ひいては文章生試における詩賦が、平安朝の漢文学全体にいかなる意味をもつものかについて考えてみた。まず、もっとも古い延暦期の二例が、盛唐の先例をそのまま踏襲していることに注目し、唐代と同様の試験形式を採用するところに、文章道を唐の進士科と同レベルの文化制度として位置づけ、そこから有為な官僚人材を抜擢し、唐と比肩する文化帝国を建設しようとする桓武朝の意図が読み取れることを指摘した。こうした類似をふまえたうえで、楽府詩と遊戯的詩作の存在に注目し、唐代と平安朝の試帖詩における性格の相違を析出した。さらに、こうした違いはなにに由来するものか、そしてそれぞれの文学のありかたといかにかかわっているかについて論述した。
第二章「平安朝における唐代省試詩の受容」では、承和期以降における省試詩の史料の不備を考慮して、主に史書・故実書類に散見する省試詩題の記述を手がかりに、平安朝の漢文学全体における唐代省試詩の受容傾向をさぐってみた。まず、平安朝における漢詩題と唐の省試詩題との類似・一致例を調査した結果、省試詩題の類似(七例)のみならず、平安朝では内宴や重陽宴の詩題として、唐代の省試詩題(十五例)が用いられていたことが判明した。しかもそのうちの十四例はすべて、承和期から延喜期に集中している。いっぽう、唐の作詩年代を見てみると、全十五例のうち、十三例が中唐のものである。このような両者の傾向を、九世紀後半における文章道の興廃と中唐において科挙の果たした役割とに結びつけて考えると、もはや偶然的な出来事として済まされないような大きな問題が横たわっていることを指摘した。そしてなぜ九世紀後半の宮廷詩宴において、唐代の省試詩題が頻繁に取り入れられたかについて、もっとも作例の多い菅原道真の詩賦観の問題として措定してみた。
第三章「菅原道真における古体詩と近体詩」は、省試詩と関連して、平安朝最大の詩人である道真はどんな作詩教育を受けて宮廷詩人に成長し、またいかにそこから離陸して、みずからの心情を詠じる方途を見出していったかについて考えてみた。
第四章「夕霧の学問」は、『源氏物語』における文章道の問題を取り扱った一章である。少女巻に現存の平安朝の記録類にも文学作品にもみられない、字をつける儀式が描かれていることを起点に、夕霧の学問の物語を歴史の文脈のなかで立体的に浮かび上がらせてその意味づけを考えてみた。まず、入学に先立つ元服や六位の設定に、文章道の精神を尊重する物語の方針が端的にしめされていることを指摘し、宇多天皇の皇子、斉世親王の先例と照らしながら、夕霧の入学式は大学寮ではなく、二条東院において行なわれたとする旧注以来の解釈に疑問を呈した。つぎに、史実の考証および物語の論理の両面から、なぜ学問の物語の掉尾に放島試が描かれているかについて考察してみた。放島試を、学問重視の姿勢を打ち出し、文治聖代の頂点を飾る文化行事の一環として位置づけるべきことを、平安朝における放島試と勅題の関係を通して論じた。さらに一連の考察をふまえ、摂関政治の伸長により、文章道が著しく廃退した時代の趨勢にあえて背を向け、虚構の世界において文章道の理想を語らずにはいられない物語作者の心意と、平安朝文学に底流する精神の関係を透視してみた。