本論文は,初期視覚処理から視覚認知処理に至る中間段階でのオブジェクト表象に対して,動的な視覚情報が及ぼす影響について検討することを目的としている.静的な観察環境においては,視覚情報の位置に基づく統合過程に関するモデルが提案されている(Rensink,2000,2002など).動的な観察環境では,視覚情報の位置情報は時と共に変化し,時間経過に伴う位置の変化,すなわち軌跡情報が形成される.静的な観察環境において位置情報を基にした視覚情報の統合が行われているならば,動的な観察環境において軌跡情報が同様の役割を果たしている可能性が考えられる.実験手法として,複数のオブジェクトを追跡する実験課題(MultipleObjectTracking;MOT;Pylyshyn&Storm,1988)を採用した.MOT課題では,8個から10個程度の刺激(アイテム)をディスプレイ画面に提示し,それらの一部あるいは半数を標的アイテムとして定義した後,10秒程度にわたって全アイテムを画面内で移動させる.被験者は指定された標的アイテムを追跡し,全アイテムの移動終了後に標的アイテムがどこに移動したかを回答する.本論文では,この実験手法を応用し,標的アイテムと妨害アイテム(標的アイテム以外の提示刺激)との間に軌跡情報の共有関係を付与し,標的アイテムの追跡成績に及ぼす影響を検討した.
第1章では,視覚認知処理におけるオブジェクトが果たす役割について,過去の知見を比較し,オブジェクトの規定要因について概観した.これまで,動的な視覚情報については検討が不十分であることを示し,さらに,動的な視覚情報のなかで移動軌跡情報が重要な役割を果たしている可能性について新たに提言した.
第2章では,先に述べた実験手法に基づき,アイテム間で移動軌跡を共有させた時にオブジェクト表象の独立性がどのように影響されるかを検討した.その結果,複数のアイテムが移動軌跡を共有した場合,それらの区別が困難になることが明らかになった.これは,移動軌跡に基づき視覚情報が保持されていることを示しており,移動軌跡情報がオブジェクト表象の独立性に寄与していることを支持する結果である.また,軌跡情報を共有する際の近接性や共線性についても検討した.その結果,近接性や共線性によってオブジェクト表象の独立性が損なわれることが示されたが,同時に,近接性や共線性を伴わない軌跡共有(ランダムな移動軌跡に沿った追従)によってもオブジェクト表象の独立性が損なわれることを見いだした.この結果から,視覚情報の‘動きかた’そのものがオブジェクト表象を規定する要因のひとつであることが分かった.
第3章では,動的な観察環境における知覚的群化の要因(良い形態)について検討した.ひとつの標的アイテムと複数の妨害アイテムが三角形を形成し,その位置関係を保ったまま移動するという状況を設定した.この際,アイテム同士の距離を操作し,形態的な情報と近接性が混在する状況と,形態的情報のみが付与される状況とを設定した.その結果,アイテム相互の形態的な情報のみではオブジェクト表象の独立性は損なわれず,動的な観察事態においても視覚入力相互の近接性が大きな役割を果たすことが分かった.
第4章では,動的な観察事態における時間的な同一性の要因について検討した.視覚情報の運動が停止・再開するタイミングを操作し,時間的同一性によって視覚情報が統合されるか否かを検討した.実験の結果,標的・妨害アイテムの移動が時間的に同期している場合と同期していない場合でMOT課題の成績に差が認められなかったことから,時間的な同一性はオブジェクト表象の独立性に影響しないことが分かった.
第5章では,軌跡情報の共有が,より高次の認知的過程に及ぼす影響について検討した.ここでは,MOT課題と分散的注意課題(異同判断課題)を設定し,MOT課題におけるアイテムの移動終了時に二つのアイテム内に提示された標的刺激の異同判断課題を行った.アイテム相互の軌跡共有が付与された場合と付与されなかった場合とを比較した結果,アイテム相互の軌跡共有が付与された場合には軌跡情報を共有したアイテムの両者に対して均等に注意が向けられていたのに対し,軌跡情報の共有が付与されなかった場合には,標的アイテムに対して優先的に注意が向けられていたことを見いだした.この結果は,軌跡情報の共有によって視覚情報間の区別が困難となり,その後の視覚認知処理において両方のアイテムに対して均等に注意が配分されたことを示唆している.
以上の実験によって,動的な観察事態では視覚情報の移動軌跡に基づいて情報が区別されることを明らかにした.また,実験結果に基づき,視覚表象の形成過程,およびその保持過程に関する先行研究との比較を行い,視覚情報の移動軌跡が視覚認知処理においてどのような役割を果たしているかについて議論を展開した.