16-17世紀東部アナトリアにおけるオスマン支配の構造 ―征服と定着―

齋藤 久美子

東部アナトリアは、古来よりアナトリアとイラン、シリアを結ぶ要衝であり、軍事的戦略上あるいは通商路確保のために各王朝の争奪の的であった。十三世紀頃に東部アナトリアに移住してきたといわれるクルド系の諸部族は、十四世紀中頃までには地方政権となるまでに勢力を伸長させ、同時に周辺王朝に従属することによりその社会を維持していた。十六世紀初頭にオスマン朝がサファヴィー朝をチャルディランの戦いで破ると、以後約四百年にわたり、東部アナトリアはオスマン朝の支配下にとどまった。次々と支配者が代わった東部アナトリアにおいて最終的に覇権を握ったのがオスマン朝であった。本論文は、従来、史料的制約もあって、十分な分析が試みられてこなかった東部アナトリア地方をとりあげ、同地域におけるオスマン支配の導入と定着の過程について明らかにすることを目的とした。そして、同地域におけるオスマン朝の長期間にわたる支配を可能にした支配の構造について明らかにすることをめざした。
本論の構成は次の通りである。第一章で先行研究と史料の紹介をした。第二章ではオスマン朝による東部アナトリアの征服の進行の過程を整理したうえで、征服の過程におけるクルド系アミール(部族連合の長)の動向を分析し、さらに、二つの征服事業におけるオスマン朝のクルド政策を明らかにした。第三章から第五章までの諸章では、十六世紀から十七世紀までを対象として、地方行政組織や軍事組織を中心に東部アナトリアにおけるオスマン支配の導入と定着について検討した。そして、第六章では東部アナトリアの伝統的な社会秩序であるクルド系諸部族の内部構造について考察した。
東部アナトリアでは、十四世紀中葉以降、アミールとアミールが統率するクルド系諸部族が支配層を形成し、通商ルート上の都市を支配拠点としていった。アミールや各部族の有力者たちの出自は部族外からであると考えられたため、実際に部族を支配していたのは外部の出自を主張する者たちであった。このような伝統的な支配体制を維持するために、アミールは近隣のアミールと姻戚関係を結ぶなどアミール間の連携を強化していた。
以上のような東部アナトリアの伝統的な秩序を容認したオスマン朝は、従来の慣習を既存のオスマン朝の支配システムに適応させていくことにより、同地域をオスマン支配体制という大きな枠組みのなかに組み込もうとした。オスマン朝はアミールの支配権を地方行政組織におけるサンジャク(県)の世襲的な管理権に置き換え、アミールの支配領域内で分有されていた土地もティマール体制下に世襲的な土地の徴税権として再分配した。このように、オスマン支配のもとで征服地の秩序や慣習は存続を容認されたわけだが、アミールの既得権に限っていうならば既得権の一部が認められたという方が正しい。オスマン朝は、征服前には基本的にアミールにより保証されていた部族の収入源を、征服後は様々な制度を通して、スルタンによる直接的な保証下に移行させることで、アミールの影響力を限定化し、さらに、アミールの地位をめぐる内紛に乗じてアミールの支配領域や既得権を徐々に切り崩しつつ、緩やかにオスマン体制内に統合させようとした。
オスマン支配の導入により東部アナトリアの伝統的な社会システムは十六世紀を通して徐々に変容を遂げたが、十七世紀に入り、オスマン朝の支配システムが定着したことにより、東部アナトリアの社会は一応の安定を見た。オスマン朝は東部アナトリア的秩序を徐々に、しかし着実にオスマン的秩序に融合させようとしたのであり、それこそがオスマン支配の本質であった。

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