本論文は、バルザックに認められる「脳」中心の人間観について分析した上で、それと有機的な関係にある「知能」中心の近代社会観を明らかにし、同時に、こうした人間観・社会観がバルザックの作品をどのように規定しているのか多方面から考察することを目的とする。
先行研究においても、バルザックの人物描写に「脳」のイメージが頻出すること、そしてバルザックが十九世紀を「知性」の時代であると考えていたことなどは指摘されているが、「脳」と「知能」の問題が有機的に結びついていること、そしてこの視点から新たな作品解釈が可能になることについては認識されていなかった。また、人類は「知能」の高さによって分類されるというバルザックの思想に正面から取り組んだ先行研究もあるが、それはバルザックの神秘主義の解明を目的としており、本論文の企図からは隔たっている。
第1部では、バルザックにおける「脳」中心の人間観を明らかにした上で、「脳」を始めとする器官の完成度によって人間の「知能」が決定されるというバルザックの思想に接近する。具体的には、バルザックが当時の脳科学から刺激を受けつつも自分なりの「脳」理解を作り上げてゆく様子を詳述し、そこで得られた知見をふまえて『幻滅』と『あら皮』において「脳」のイメージが持つ意味を明らかにする。さらに『ルイ・ランベール』中に記された「偉人の首は短い」という言明について、「脳」と「心臓」が接近していると「知能」が高くなるという当時の医学者の説を参照しつつ、バルザックにおける「知能」の器官決定説を浮き彫りにする。
第2部では、革命によって身分制度が崩壊し、ナポレオン戦争も終結した十九世紀初頭のフランス社会においては、「知能」こそが個人の最大の武器となったと考えるバルザックの近代社会観を明らかにした上で、この社会観と「知能」の器官決定説を組み合わせたときに生じる重大な帰結、すなわち個人の社会的成功の限度は生まれながらにして決まっているのだという決定論について論じる。具体的には、『ルイ・ランベール』等に見出される人類の三区分という思想を出発点として、そうした思想がどのような文学的表現に結実しているのかを検討する。限られた「知能」しか持たない商人が能力以上の出世を志して破産する物語、低い「知能」しか持たない女職人がその「未開人」的な頭脳の特質を生かしてある程度まで復讐を成功させてしまう物語、高い「知能」を持つ土木技術士が土地開発に見事成功するユートピア的な物語――こうした種々の作品の分析から分かるのは、一見すると物語を平板化するように思われる「知能」決定論こそが、むしろダイナミズムを生み出しているのだということである。
第3部では、「知性」が万能となっている状況は、文明の進歩であると同時に病でもあるとバルザックが考えていたこと、そしてその病に対する二重の処方箋が提出されていることを示す。すなわち、知的エリートたちはコーヒーを飲んで頭脳労働に励むべきであるが、そうでない人々はアルコールやタバコの与えてくれる快楽によって苦痛に満ちた現実の埋め合わせをするほかないとする『近代興奮剤考』の暗い結論と、「知能」が低ければ不幸にならざるを得ないというのは個人主義の弊害であって、個人は家族や宗教を始めとする集団に属することによって幸福を取り戻せるという『現代史の裏面』の希望に満ちた結論である。後者の処方箋は、一見すると楽観的すぎるように思われるが、二十世紀になってから多くの国家が個人を連帯させることによって全体の福祉を向上させたのも事実であり、バルザックの提示する解決策はある程度実現されたと言ってよい。
以上の分析から、バルザックの作品における「脳」と「知能」の問題は、十九世紀前半のフランス社会という近代草創期のあらゆる側面を描き出そうとする『人間喜劇』の中心課題に直接通じていることが理解される。「知能」の限界が生まれつき決定されているというバルザックの思想には賛同できないけれども、この思想こそが彼の作品の戦慄をはらんだ魅力を生み出していることは間違いない。