本研究は、1920年代から30年代の南インドにおける労働運動を、民族主義勢力(会議派)、共産主義勢力、非バラモン主義勢力との関係性の中で把握することにより、インド近代史をエリートと大衆の相関関係という観点から再構築することを目的としている。従来のインド近代史研究は、エリートと大衆という範疇を相互排他的で不変的なものと捉え、各々が独自の行動原理に従って別個の運動を展開したと解釈する傾向が認められる。しかし、当該時期の労働運動を見ると、労働者はエリート(政治運動の指導者)との関係性の中でアイデンティティや行動様式を変化させ、逆にエリートも労働者の支持を獲得するために、変わり続ける労働者の要求に合致するような政策を不断に練り直している。特に南インドの場合、会議派は共産主義と非バラモン勢力が連携して労働者に支持基盤を拡充していることに危機感を募らせ、劇的な政策変換を断行している。したがって、労働者は、政治の表舞台に立つことはないものの独立運動の方向性を決する重要なアクターであったと考えられる。そこで本稿は、先行研究では光が当てられてこなかった南インドにおける共産主義活動と非バラモン運動との関係に注目し、労働運動との相関関係を考察した。そしてその結果生じた労働者の行動様式の変化が、民族運動を推進する会議派の政策に与えた影響を分析した。解明された内容は以下の通りである。
政治運動指導者が労働者に接触したことは、労働者を自立化へ向かわせる契機となった。つまり、労働者は指導者から様々な情報提供を受けて自己の立場を相対的に認識し、かつ不満の原因を理論的に把握することができた。それでも労働運動の初期段階では経営側と直接対峙する能力が欠如していたために、交渉代理者となるべき指導者の注意を喚起するべく「注意喚起ストライキ」を起こしていたが、指導者の行動を観察しストライキ経験を集積する過程で、人前で声を発する「発話能力」、さらには経営に対して理論的に要求を説明する「交渉能力」を身に付け、指導者から自立していった。
このような自立化は、政治家による労働者の一方的動員を不可能にしたため、政治家は労働者を惹きつける政策を考案する必要に迫られた。その結果、政党内で労働者の要求を政策にフィードバックさせる機能が求められるようになり、労働者と直接接する地方組織の活動方針決定権が強化されるようになった。その典型例が共産主義組織と会議派である。まず共産主義組織は、コミンテルンの画一的理論がインドの政治社会に適合しないと判断し、中央組織が党理念としてコミンテルンの理論を掲げる一方で、州組織に実践面での活動方針決定権を付与し、問題の解決を図った。その結果、各州組織は労働運動(あるいは農民運動)を通じて支持基盤を拡大するという現実路線を採択し、共産主義の浸透に成功した。
特に南インドでは、共産主義は非バラモン運動という地域独特の政治社会改革運動と結びつくことによって、労働者のみならず広く一般に影響力を及ぼした。
このことが、南インドにおける会議派州組織の政策を変質させる。会議派は、ガンディー主導のもと大衆的民族運動を推進し、あらゆる宗派や階級が参加することを通じて「インド民族」を創出することを目指していた。しかし、「全コミュニティの融和」を重視するあまりに、階級対立の発生を恐れて労働運動の急進化を抑止してきた。一方、マドラス州会議派は、労働運動の激化と共産主義的自尊運動の伸張に対応するために、党の性格を劇的に変化させ「左」化した。会議派内部に社会党が結成されるのを認め、1937年に州内閣を組閣すると共産主義者を閣僚に登用した。労使対立への積極介入と「非暴力」主義という基本方針からなる同政権の労働政策は、党の「左」化を体現するものであった。まず政府は、積極的に労使対立に介入し「公正な仲介者」を演出することによって労働者の期待に応えようとした。次に、争議の過激化を抑えるために、同政権は、労働者ではなく経営側に厳しい態度で臨んだ。刑事訴訟法第144条(階級間対立を煽り暴力を誘発する行為の禁止)を経営側に適用し、「非暴力」主義を掲げて、労働者の不満を徒に煽り暴力行為を引き起こしかねない頑迷な態度をとる経営側に改善を迫ったのである。第144条は、イギリス人経営者のみならずインド人経営者に対しても容赦なく適用された。このことは、会議派が公正な立場にたって労働問題に取り組み、労働者を擁護する政策を打ち出したという印象を労働者に与え支持を得るための方針であった。
このように、マドラス州会議派は、労働者の要望に応えるために、そして労働者が抱く会議派イメージを守るために、党中央でガンディーが推進する「全コミュニティ融和」政策と一線を画し、抑圧された大衆のための政党へと変貌を遂げた。つまり、「融和」の名のもとに大衆のエネルギーを抑止してきた会議派は、州レベルでは、大衆政党としてインド人資本家をも含む富裕層を抑止する明確な姿勢を打ち出したのである。