本稿の目的は、革命期(1917年2月‐1921年3月)のロシアにおける国家運営と民衆統合の相互関係を分析することにある。革命期のロシアでは、国家運営と民衆統合とは独自の仕方で結びついていた。端的にいえばボリシェヴィキは、国家運営に民衆層を直接に参加させることによって、体制への民衆統合を実現することを目指したのである。本稿では民衆層を国家運営に引き込むためにボリシェヴィキが展開した試みの諸相を、モスクワ市の事例に即して分析する。モスクワ市を対象とするのは、同市の党員集団によって、民衆層を国家運営に引き込むための数多くの試みが提起されたからである。
帝政崩壊後、ロシア社会では政治文化の流動化が生じた。ボリシェヴィキはコミューン国家という直接民主主義的な政治秩序を実現することによって、政治文化の再編過程を収束させようとした。だが十月革命後、彼らが期待した民衆層の国家運営への参加は実現しなかった。行政機構は「ブルジョア的な」構成の点でも、各自の利害を追求する行動規範の点でも、共産党の理想像からは異質であり続けた。のみならず、本来一体的であるべき党員集団さえもが、各人の働く行政機構の個別利害に沿って分裂していった。行政機構の閉鎖性を揺るがすために、モスクワ市党組織は民衆層の国家運営への引き込みに大きな力を割くこととなった。とくに1918年夏に同調者の組織化が始まってからは、日常生活の場に密着して、可能な限り広範な民衆層の意識に働きかけることが、市党組織の基本的な活動路線となった。その延長線上で1920年、モスクワ市でも全国規模でも「共産主義労働」が開始された。これは、集団主義的な理念に基づく労働を媒介として、住民の意識の改造を図る試みであった。その結果、革命期の終わりまでに、住民各人が労働を通じて国家運営に直接に参加するという展望が切り開かれた。この展望は革命期には可能性に留まっていたが、1920年代末の急進的工業化の中で現実のものとなった。
だが、市党組織が標榜する集団主義的な価値体系が住民全体に浸透した結果、党組織は最早、社会における前衛ではなくなってしまった。そのかわりに新しい価値体系を身につけた「ソヴィエト人」が、ロシア社会の中心的な要素を構成することとなった。このソヴィエト人とは、帝政期の行政機構が創出することを目指したロシア・ネイションに他ならなかった。革命期に党組織が国家運営への民衆層の引き込みを図った結果、1930年代に至って、行政機構は残り、ソヴィエト人が生まれ、党組織は前衛の地位を失った。すなわち党組織は、行政機構主導のロシアの近代化を一層推進するための前提――ネイション――を生み出し、そのことによって自らの歴史的な役割を果たし終えたのである。