本論はロシア18世紀古典主義文学におけるホラティウスの影響を考察するものである。取り上げるジャンルと作家はカンテミールの諷刺詩、ロモノーソフのオード、およびデルジャーヴィンのオード・抒情詩である。
18世紀ロシア文学においてはフランス文学の影響が大きいことから、第一章ではフランス古典主義文学の特徴を概観した。まずイタリア・ルネッサンスの文学理論家たちの理論がフランスにいかに受け入れられ、それがいかにフランスの文学理論家たちの理論の形成を促したかを示した。また、古典主義が確立するまで文学の主流であったバロック文学の様相についてもあわせて概観した。
第二章ではフランス古典主義文学におけるホラティウスの受容についてまとめた。ホラティウスの抒情詩や諷刺詩は古典主義文学のそれぞれのジャンルの形成に大きな役割を果たしたと見られるが、本論ではホラティウスの影響の一般的な特徴を述べ、ボアローの詩論の形成に大きな影響を及ぼした彼の『詩論』(ArsPoetica)を紹介したのち、ボアローの諷刺詩とホラティウスの諷刺詩の比較を行った。
第三章はロシア古典主義の問題を扱った。まず従来のソ連の学者たちの古典主義にたいする種々の見解を紹介し、そのなかの偏った見解を批判した。また18世紀ロシア文学の発展の様相を把握する上で基準になるべきものとして、啓蒙主義、国家イデオロギー、個人の発話としての文学の機能の問題を提示した。
第四章ではカンテミールの諷刺詩について考察した。彼の諷刺詩はローマの諷刺作家からの借用が目立つ。しかし彼は徹底した啓蒙主義哲学としての顔をもっており、彼の諷刺詩には彼の合理主義者としての人生・社会観が現れている。彼はなにより理性の光の下開明した政治の行われる社会を望んだ。彼の期待は実際の社会の政治後進性や頑固たる宗教的偏見によって妨げられる。これによる失望感は彼の諷刺詩のいたるところにある。この失望は以前のローマの諷刺作家たちのそれとも性質を異にしている。ただしホラティウスの諷刺詩における人間性格の洞察、あるいは素朴な生活の魅力の称え等はカンテミールの諷刺詩の主要な要素を成している。
第五章はロシアのオードにおけるホラティウスの影響について考察した。取り上げる作品はロモノーソフとデルジャーヴィンのオードと抒情詩である。
最初にホラティウスのオードを数編を取り上げ、その特徴である教育的性格について述べた。
ロモノーソフの項では、彼の詩論、およびロシア古典主義の詩論で大変重要な意義をもつと思われる『修辞学指針』を分析し、ロモノーソフの詩論の重要な特徴といわれる、‘感性’を重視する表現法が実はローマの修辞学と深い関連をもつことを示した。また近代ヨーロッパにおいて修辞学の教材として最も権威を持ち、ロモノーソフも当然読んだものと思われるクィンティリアーヌスの『修辞学教本』と『修辞学指針』を比較し、ロモノーソフの表現法の特徴を考察した。
ロモノーソフは古代作家を多く読んでおり、彼の詩の世界も彼らと深い関係があるが、とりわけピンダルスとオヴィディウスの影響が強いと見られる。ピンダルスのメタファーはロモノーソフのそれと似た面が多く、彼の荘重なスタイルで使われる比喩とも深い関係があると思われる。本論ではピンダルスとロモノーソフのメタファーを例示してその類似点を考察した。またロモノーソフの詩の場面展開における分割的な場面構成はオヴィディウスのナレーションの特徴と関係があると考え、この点についても考察した。
ホラティウスとロモノーソフはそれぞれアウグストゥス皇帝とピョートル一世を神格化し、彼らを詩の重要なモチーフとしているが、その詩的イメージや根底にある思想における共通点あるいは差はどのようなものかを考察した。
デルジャーヴィンの項では、彼の詩に見られるいくつかの重要な問題点を取り上げて考察した。まず初期詩における抒情性の特徴について述べ、その後抒情性が拡大していくなかで、詩的自我の表出を特に叙景の手法との関係のなかで調べ、ホラティウスの詩とどのような関係をもつかを調べた。さらにデルジャーヴィンの詩の重要なテーマである神智学が彼の詩のなかでどのように現れ、古典作品とどのような関連があるかについて述べた。最後に詩人としての自覚が二人の詩人のなかでどのように現れるかを比較考察した。