境界をみつめる目 ―ナボコフのロシア語作品をめぐって

毛利 公美

19世紀後半におきた映像文化の著しい発展は、「見ること」に対する意識を根本から揺るがすものだった。20世紀にはいると、写真や映画の一般的普及がそれに拍車をかける。本論において、筆者は視覚文化と文字文化についての20世紀の様々な論考をふまえ、「見ること」と「書くこと」に対するひとつの姿勢の表れとして、亡命ロシア作家ウラジーミル・ナボコフの作品を分析する。
亡命者にとって失われた過去の記憶は、ときに現実を圧倒するほどの重さをもち、彼らは記憶と現実の二重の生を生きていた。ナボコフの場合、この世界の二重性は、虚構と現実というさらなる次元を加えた多層的な世界として表される。世界のありかたに対するナボコフの多層的な認識には、記憶の問題に加え、映画や写真などの映像文化が大きく関わっている。ナボコフは映画を愛好したことが知られるが、それに加え、エキストラとして映画に出演し、自分が加わった現実のシーンがスクリーンの上で虚構に変容していることを目撃した体験は、現実と虚構に対する新たな認識をもたらした。
本論の目的は、20世紀における映画の飛躍的発展に代表される映像文化の普及がナボコフの作品に与えた影響を考え、亡命という運命の中で、他の多くの亡命者たちのように悲観的になることなく、新しい芸術のあり方を模索したナボコフの世界観を明らかにすることである。
論文の第1章では、詩「復活祭」、短編「クリスマス」、「ロシアへの手紙」、長編『マーシェンカ』を主に取りあげ、大きな喪失を経験した後に、世界に残される美や善を探そうとするナボコフの積極的なまなざしを明らかにする。亡命者にとって望郷は大きなテーマだが、ナボコフはノスタルジーの根底にある記憶の作用を用いて新しい虚構の創造をしようとした。
第2章では、写真というモチーフの扱いに注目し、同時代の他の二人の亡命作家(ホダセーヴィッチ、ブーニン)との比較を通して、ナボコフの世界観の独自性を明らかにすることを試みる。ナボコフは、写真をノスタルジーや記憶のロシアと結びつけるのではなく、写真によって促される「時間をさかのぼる」行為を通して現実の見失われがちな価値を見いだし、保存することを芸術的創造の意義とした。
第3章では、ナボコフと映画の関わりについて整理し、作品の中でエピソードとして描かれたエキストラ体験を、当時の回想などを参考にしながら、実際の亡命者がおかれた当時の状況に即して検証した上で、戯曲「ソ連から来た男」や『マーシェンカ』を分析し、単なるエピソードとしてあまり重用視されることがないエキストラ体験がナボコフの世界観に落とした影について考察する。
第4章では、ナボコフが演劇の「第四の壁」について述べた言葉をヒントに、ナボコフは物語世界と現実世界の間の境界をどのように考えていたかを整理し、それが彼自身の作品内にどのように描かれているかを考察する。
第5章では、『断頭台への招待』の中で主人公が幽閉される牢獄(камера)を「カメラ」と読み換え、映像という複製技術と全体主義の時代に書かれたこの作品を「見ること」と「見られること」の関係において考える。また、作品の中で用いられている様々な写真のモチーフに託された意味について考察することによって、ナボコフが映像の時代における真の創造行為とはどういうものだと考えていたのかを考察する。

一覧へ戻る