本論は、音楽思想における「ドイツ的なもの」の理念を歴史的に考察することで、近代ドイツのナショナル・アイデンティティが形成される過程で音楽という芸術がいかなる重要性を担っていたかを明らかにし、それを通じて、《音楽の国ドイツ》という文化的表象の歴史性と政治性を問い直す試みである。
ドイツ人の愛国意識が書き込まれた最初の音楽文献は一六世紀のものであるが、そこには《音楽の国ドイツ》という観念は見られず、それどころか、ドイツ人が外国人から「音楽性がない国民」として軽蔑されていることが問題となっている。一七世紀には、愛国主義的なドイツ語純化運動と連動して、イタリア・オペラに対抗しうる国民的オペラを創設する試みがハンブルクを中心にして始まったが、これは音楽における「ドイツ的なもの」を模索した先駆的運動となった。その後、伊仏音楽の優劣論争を受容した一八世紀前半には、ドイツの音楽的アイデンティティをイタリアとフランスの趣味の「混合」に求める試みが理論と実践の両面においてなされた。この混合趣味は、独自性の欠如それ自体をドイツの独自性とみなし、「ドイツ的なもの」を「普遍的なもの」との結びつきにおいて定義する、近代ドイツに特有のナショナル・アイデンティティの最初期のあらわれであった。
一八世紀後半以降、ヘルダー流の「民族精神」の理念が浸透するのに伴って、「ドイツ的なもの」としての混合趣味は衰退するが、ドイツ音楽の「普遍人間的」性格は、一九世紀に入ってからも、ロマン主義的な器楽の美学や進歩主義的な音楽史観のなかにかたちを変えて生き続けた。1820年代後半以降、ベートーヴェンの死を契機としてドイツ音楽史に一種の「歴史の終焉」が訪れるが、その後に生じた「ベートーヴェン対ロッシーニ」論争のなかで、音楽における「イタリア的なもの」に対する「ドイツ的なもの」の美学的優位が確認されたことで、ドイツ音楽は「世界史的使命」を獲得することになる。
だが一九世紀後半に「絶対音楽」の是非をめぐって生じたハンスリックとヴァーグナー派との論争は、オーストリアとプロイセンの政治的対立が深まるなかで、「ドイツ音楽」の理念そのものが二つに分裂したことを示している。器楽の形式美がもつ「普遍的」で「国際的」な性格を重視したハンスリックの音楽美学が、ドイツ文化を「共通語」として多民族帝国を維持しようとするオーストリア=ハプスブルク的な「ドイツ」の理念に対応していたとすれば、音楽的な形式主義を「南方的」で「イタリア的」なものとして退け、音楽を通じて「ゲルマン精神」を称揚したヴァーグナー派は、純粋な「国民国家」を指向するプロイセン=プロテスタント的な「ドイツ」の理念を代表していた。
ヴァーグナーは1860年代後半に、普墺戦争を転機として急速にビスマルクのプロイセンに接近し、新生ドイツ帝国の誕生を自らの《皇帝行進曲》で祝った。だが、新生ドイツ帝国の文化政策に失望して以降、彼は反プロイセン的な姿勢を強め、現実世界ではもはや達成不可能となった真の「ドイツ」を自らのバイロイト祝祭劇場のなかで実現しようとした。そして最終的に、彼の楽劇および思想のなかでの「ドイツ的なもの」は、「ユダヤ的なもの」に対置されるかたちで、自然との調和や自己への親近感といった、地理的および人種的な限定を離れた内面的理念へと帰着した。
このように近代のドイツでは、政治的ナショナリズムが顕在化するはるか以前から、音楽のなかに「ドイツ的なもの」が追求されてきた。音楽はドイツの人々にナショナルなアイデンティティの拠り所を提供したばかりでなく、「ネイション」の輪郭を想像させ、「ドイツ精神」の本質を開示する役割をも果たしてきたのである。そのことは、ドイツではとりわけ一九世紀以降、理想的な共同体のあり方がしばしば音楽的な比喩で説明され、またときに音楽そのもののなかに表象されてきたことにも示されている。国境を越えるもの、民衆的なもの、純粋に人間的なもの、眼には見えないもの、内的な精神によってのみ把握が可能なもの、等々、ドイツの政治的言説のなかで「ドイツ的なもの」を定義するために用いられてきた諸概念は、そのまま、美学という学問が音楽という芸術に特権的に付与してきた属性に他ならない。
すなわち近代のドイツにおいては、「ナショナルなもの」それ自体が、音楽という芸術を媒介にして美的に構築された理念であった。ドイツ音楽がナショナリズムを「反映」してきた、というより、ドイツのナショナリズムは音楽を通じて条件づけられていたのであり、ドイツ人が音楽を作ってきた以上に、音楽が「ドイツ」を作ってきたのだ。そして、《音楽の国ドイツ》という今日までわれわれを支配している神話は、こうした歴史的過程を忘却し、むしろそれを隠蔽したところに成立しているのである。