本研究は、13-14世紀モンゴル支配期のイラン高原を中心とするペルシア語圏における、書簡術(インシャー術)をめぐるエリート文化の諸相について、インシャー術の指南書・技術伝達に関わる作品、インシャー作品を手がかりに考察することを試みる。
知的エリートの必須教養とされる技巧的書簡・文書起草術、インシャー術は、イラン、インド、中央アジアに広がるペルシア語文化圏(ペルシア語を文章語として共有する領域)の共通文化として、強い関心を集めていた。しかし、インシャー術が継承する規範と理念とは一体何なのか、具体的に明らかにされたことはなかった。そこで本稿では、ペルシア語インシャー術発展史の中で従来注目されてこなかったモンゴル支配期を事例に、新たに発掘したインシャー術に関わる指南書・文献=インシャー作品の分析を通して、伝統的書簡術の規範と理念が知的エリートの思想・活動をいかに規定するのか、また、モンゴル支配によりペルシア語圏に入ってきたモンゴル文書行政の受容において、伝統的文書行政術がどのような役割を果たしたのか、多面的な考察を試みる。
第1章「モンゴル時代におけるペルシア語インシャー作品の編纂」では、これまで研究対象となってこなかったモンゴル時代のインシャー作品の中から、特に指南書の形式を取る作品を取り上げ、文献学的な整理・分析を行う。
第2章「ペルシア語書簡作法とその理念」では、1章のインシャー作品を手がかりに、ペルシア語書簡起草の作法について、セルジューク朝期から13-14世紀モンゴル時代までの発展と変容を追う。
第3章「ペルシア語書簡術における『位階』の概念」では、インシャー術の書簡作法の中で培われた書簡授受者の伝統的な身分秩序、「位階(martaba)」の概念が、モンゴル支配という政治的・社会的変動の影響をどのように受けたのか、セルジューク朝期からモンゴル時代にかけてのインシャー術指南書における位階秩序の変化と伝統の継続を検討する。
第4章「モンゴル時代における政治・社会的人間関係と書簡作法」では、一エリートの政治的・文化的活動に書簡作法がどのようなかかわりを持っていたのか、イルハーン朝期の権力者ラシードウッディーンの書簡集を題材に検討する。
第5章「ペルシア語インシャー術とモンゴル文書行政」では、モンゴル文書行政のペルシア語圏への導入と、ペルシア語文書へのモンゴル的要素の浸透に、伝統的文書起草術としてのインシャー術がどのように関わっていたのかを考察する。