本研究は,13世紀のセウタに出現し,以後マグリブ・アンダルス各地域にひろまっていった預言者生誕祭について論じたものである。
第1章では,預言者生誕祭を提唱したセウタのアザフィー父子による『連ねられた真珠』を検討した。この著作の執筆意図は,キリスト教徒の脅威に対してムスリムとキリスト教徒との境界線を明確にしようしたものであった。その一方で,この書には前世紀から高まりを見せていた一連の預言者崇敬の書の影響が顕著に見て取れた。また,同じ時期にはスーフィーによる預言者生誕祭の事例が現れる。スーフィーでもあったアザフィーとこの事例との関係は曖昧模糊としているが,そこで見られた音・光・香といった五感に直接訴えかける演出は,以後の預言者生誕祭実践の先例と見られる。
続く第2章では,アザフィー家の半独立政権,滅亡に瀕したムワッヒド朝,そして勃興期のマリーン朝を例に,国家行事としての預言者生誕祭が13世紀後半から始まったことを示した。これらの事例は三者三様であるが,いずれもムワッヒド・イデオロギーにかわる統治理念が求められていたことを背景としていた。また,スーフィー的な要素が随所にみてとれることも指摘した。
第3章では,マリーン朝宮廷で挙行された預言者生誕祭の演出方法が,14世紀になるとマグリブ・アンダルスの他の地域でも採用されていったことを論じた。この時期には,どこの宮廷でも音・光・香による演出や預言者生誕讃歌による君主と預言者双方への賛辞などの共通した要素が見られ,支配者の威光を強調する機会となった。この祭が具体的な政治状況とどのように連関していたかも,マリーン朝による占領前後のチュニスを舞台に検討した。
最後の第4章では,法学者たちによって,この新たに出現した祭がどのように受け取られたのかを,ファトワーを通して検討した。預言者生誕祭に批判的な議論では,そのほとんどがスーフィーたちの集団による挙行,とりわけそこで看取される様々な堕落行為が問題とされていた。その一方で,預言者崇敬そのものへの配慮はこれらのファトワーの随所にみてとれた。一方,預言者生誕祭を擁護する立場の論者も,この祭に際して男女の同席などよからぬ行為が付随するのをきらい,これらの排除をよびかけ,それによってこの祭の正当性を主張しようとしていた。
このように,13世紀に出現した預言者生誕祭は,キリスト教徒の脅威,ムワッヒド・イデオロギーの崩壊,スーフィーたちの活動といった当時のマグリブ・アンダルスをとりまく状況の下で,様々な形態をとりながらもムスリムたちの新たな信仰の表現形態として,受け入れられていったのである。