本論は、「四鏡」の棹尾『増鏡』の解釈・未決問題の検討を試みたものである。

第一章では流れの解釈を試みた。全体を四部と捉え、概ねそれに対応させ五節を立てた。
第一節では物語の始発として、後鳥羽院物語を取り上げた。『増鏡』が後鳥羽院・後醍醐帝をその対象とする時代の首尾に置き、その対称性を端緒として叙述されたことは広く共有された前提であろう。しかしながら、その描写のあり方は大きく異なっている。院の姿は、承久の乱以前の「おどろのした」、乱の時期に相当する「新島守」、そして「藤衣」の隠岐配流の叙述に三分される。古くは武家政権への憤懣がデフォルメされ、やや近くは院の風流がクローズ・アップされるとされた物語であるが、本論はこれに疑義を呈した。「帝紀」「鏡」の始発点において偶像化された「理想の帝王」を形象するのが後鳥羽院物語である。その機能を担うのは伝統・倫理を示した「小史」であり、伝説化された逸話である。
第二節では、結果的に中継ぎとなった後高倉院二代について『沙石集』を端緒として言及した。後高倉院にのみ注目したが、後堀河・四条二代「藤衣」「三神山」は、前半を後鳥羽院の隠岐配流に、後半を後嵯峨院継体の予兆に用いられており、作者の意図もそこにあると思われるが、後醍醐帝物語の「春の別れ」に似て、旧世代との別れとして位置する。
第三節では、後鳥羽院・後醍醐帝の狭間にあって公家・武家ともに安定した「後嵯峨院時代」について述べた。院の時代に生まれた「公武協調」は、往時の人々にとって承久の乱からの快復ではあったとしても、理想ではなかったに相違ない。しかし、『増鏡』作者の視線からはどうであろうか。武家に依存しながら儀礼も復活し再出発を遂げたこの時代は、「新たな理想形態」だったはずである。
第四節では、両統迭立期を第三部と規定し考察した。この時代は従来、後嵯峨院時代と併せて「第二部」とされていた。しかし、政治状況・事件、また恋愛物語においてさえ、後嵯峨院時代とは様相を異にする。もとより後醍醐帝物語とは、別して把握すべきであろう。しかし、前兆は確かに存在する。その意味でこの第三部は、後嵯峨院時代の名残と後醍醐帝物語の前兆の同居する過渡期であったと言い得よう。また『とはずがたり』『源氏物語』の影響についても私見を示した。
第五節は、後醍醐帝物語である。先行研究と比較して、帝の世を動乱に至る以前から暗い空気漂うものと解釈し、後二条流との確執においては、作者の帝の強圧的性格への意識を見た。擱筆については後醍醐帝の還御で完結する形態にこそ、「帝紀」「鏡」終焉の意味が濃厚に顕われると考える。また、その終焉は「鏡」に留まらないことを述べた。

第二章は、所収和歌についての考察である。第一節は、第一章に探った歴史認識を支え、補完する機能を持つものとして和歌を位置づけている。『増鏡』に多い賀の歌については、往時の得意が歴史物語読者においては慨嘆を増幅する機能を果たし、巻を重ねるにつれて作者がそれを意図していることが明確になってくることを述べた。
また、後鳥羽院・後醍醐帝の敗残・流離の歌は、同趣でありながら空気は全く異なっている。院のそれは風雅の世界への回帰であり、帝の歌は再起へ向かう物語の道行である。
第二節は、所収和歌の作者群について考察した。題材とした場面に付随しての結果、とも考えられようが、作者の関心を探る端緒として更に追究すべきと考える。
第三節では、第一節の考察に際して浮上した、和歌による諸本間異同について考察した。