本論文では、日本絵画における図様の転用という現象の諸相を分析し、その意味について考察する。第一章では、図様の転用という現象を理論面から考察する。絵巻の風俗表現の図様を例に、言説性と形象性の間において絵画を捉える記号論の手法を援用して、転用の仕組みを次のように解明する。転用元の作品において、中心となる言説に対して過剰な形象である風俗表現の図様とその明示的意味が、暗示的意味からの乖離を介して中心となる言説から独立する。図様の転用は、明示的意味の類似性によって行われる。なお、この仕組みは日本絵画の図様全般に当てはまる。次に風俗画の定義と特質について、言説と形象の観点から再考する。

続いて、先行図様を大幅に転用して制作された日本絵画作品を研究する。第二章では、初期洛中洛外図屏風の一つ、歴博乙本〈洛中洛外図〉の筆者と制作年代を確定する。初期洛中洛外図屏風の内、本図のみに特徴的な次の描法を選び出す。1、主に松を除く樹木(広葉樹)の枝や幹を強い鋭角に繰り返し屈曲させる描法。2、塔の隅を正面に据え、かつ縁・高欄を描かず、屋根の線を直線的に引く描法。3、多くの寺社の塀の土台または塀を石積みに描く傾向。これらの描法を、狩野元信・松栄・永徳・宗秀各工房による洛中洛外図諸本と比較検討し、宗秀の洛中洛外図のみに顕著に共通することを確認する。さらにこれらの描法の歴史的な位置付けの詳しい考察により、これらが宗秀世代の登場と共に初めて明確に現れたものであることを示し、歴博乙本は宗秀工房で制作されたものとする。筆者は松栄工房で画法を学んだ後、宗秀工房で活動した絵師と想定し、制作年代は一五七〇年代半ば前後から後半頃までの間とする。

第三章では、遊楽風俗図屏風の先駆とされる、狩野秀頼筆〈高雄観楓図〉の制作状況を解明する。本図が多様な画面形式の先行作品の図様を利用しており、洛中洛外図屏風・扇面画・絵巻等の大和絵系の図様を、狩野派の大画面中国人物図の形式を踏まえて再構成していることを述べる。次に、高雄の画像イメージとして遠望・近接の二種類の視点が定型化されており、本図は両者をつなぎ合わせることを指摘する。この構成は本図が二河白道図等の仏教絵画の画像イメージを踏まえたためでもあり、これらとの関わりは画面構成だけでなく、聖地へ至る困難さを表すなど構造のレベルにまで及ぶ。最後に制作年代を再考し、神護寺の場面に利用される2の描法や歴博乙本の系列の図様との関わりから、一五七〇年代半ばから後半頃と推定する。

第四章では、円山応挙筆〈難福図巻〉の制作状況を解明する。本図は『仁王経』の七難七福を現実にあることで絵画化したというが、祐常・応挙による下絵・本絵共に、聖衆来迎寺の〈六道絵〉や〈酒飯論絵巻〉等、古画の図様を大幅に利用して制作されていることを指摘する。古画の利用は、難の図を六道絵や地獄絵の伝統に連なるものと意味付け、貴族の生活を描く福の図に理想性を付加する。祐常ら鑑賞者の貴族が、原典の古画を連想して楽しむことを想定した可能性もある。次に、刑罰の図は実際の刑罰に取材するが、江戸幕府が特殊化した刑罰の再現ではなく、わかりやすく普遍的な形態に変えていることを述べる。また、『観音経』の諸難と観音経絵が、祐常の難の図の構想・制作に参照されたことを示す。本図では虚構性を前提としたそれらしい表現が追求され、これは応挙の絵師としての特質でもある。本図は人々の教化をうたいつつ、実は貴族による尊崇の対象としての自己確認のため、またその意に添わない庶民への不満のはけ口として制作・鑑賞されたと考えられる。

最後に、全体のまとめを行う。ある作品における先行する図様の利用のレベルは、図様の転用元の作品の、転用先の作品に対する時代・種類の距離、転用元の図様の所在の絵師に対する距離、という三要素ではかれ、それにより作品の独創性の高低を指摘できる。三要素の距離がいずれも近い歴博乙本では独創性は低い。〈高雄観楓図〉では時代・所在の距離は近いが、様々な異なる種類の作品の図様を用いて新たな作品を創作している。〈難福図巻〉では三要素の距離がいずれも遠く、あえて古い時代の異なる種類の作品の図様を特別に入手して用いており、独創性が高い。このようなものは先行図様の蓄積に加え、それらを客観的に把握するための時代の下降と、特別な制作事情を要する。日本絵画において図様の転用が行われる意味は、同種の作品の再生産のための便宜に始まり、過去の作品を踏まえて新たな枠組み・文脈を持つ作品を創出するための方法にまで広がっている。