植民地期朝鮮における宗教をめぐる「眼差し」 ―宗教政策・植民地布教・学知―

川瀬 貴也

本論文は、日清戦争の前後から一九三〇年代までの朝鮮において、日本の諸宗教(特に仏教とキリスト教)がいかなる「植民地布教」活動を行ったのか、そして統監府・朝鮮総督府の宗教政策はいかなるものであったのかという問題意識を中心に据えつつ、当時の日本人、特に宗教家や学者などが構築した「朝鮮人像」「朝鮮宗教観」がいかなる性質を持ち、当時の社会や政策と絡み合って、いかなる影響を日本人・朝鮮人の双方に及ぼしたのかを探る試みである。このことは、日本人が「朝鮮」という「他者表象」を通じてどのような「自画像」を描き出したのかという問題と言い換えることも可能であろう。
本論文の構成は以下の通りである。
第一章においては、日本の統治機構(統監府・朝鮮総督府)の宗教政策の法令の性格を分析しつつ、同時に日本仏教の朝鮮布教を―特に真宗大谷派を中心に―考察していく。日本が「植民地帝国」になっていく過程で、日本仏教もその範図に足跡を残したのである。本章においては彼らの残した「言説」を追うことで、当時の日本の仏教者の「朝鮮観」「朝鮮人観」を解明することを試みる。この作業は換言すれば「帝国」の一臣民であった彼らの自画像の一端の解明でもあるだろう。
第二章では、日本キリスト教の朝鮮に対する「眼差し」を、主に各宗派の機関誌に掲載された言説を検討・再構成することによって明らかにする。日本キリスト教も、第一章で取り上げた日本仏教同様、帝国日本の版図が広がるのに従い、その活動領域を広げていったが、実は日清・日露戦争のころから、「帝国」的な欲望が胚胎していたことがその論説から読み取れる。本章ではそのような日本キリスト教が内在させていた「欲望」のありかと、それに対抗するいわば「反主流派」との論争を、植民地期朝鮮における最大の布教宗派であった日本組合教会内部に見る。そして、それと対照するべく、教派を離れて個人伝道をしていた人物を取り上げ、その植民地伝道の性格を問う。一九三〇年代後半、「神社参拝決議」によって戦時下協力体制下に入るまでの日本キリスト教会及び朝鮮キリスト教会の動きも追跡する。
第三章においては、日本人の「眼差し」に貫かれていた朝鮮人の「主体性」を問う。具体的には、一九一九年の三・一独立運動時に逮捕された天道教幹部たちの「声」を裁判記録から拾い、彼らがどのような文明観、宗教観、国家観、対日観などを内面化していたかを再構成する。彼らの「反応」を通じて我々は、当時の朝鮮人の「宗教」や「文明」をめぐる言説のアリーナでの「葛藤」の一端を知ることができるだろう。
第四章では、京城帝国大学教授であった高橋亨の言説を追い、朝鮮人、朝鮮宗教に対する「眼差し」のあり方、そしてその学知の生成現場を考察する。植民地における「学知」の形成は植民地研究の大きなテーマであるが、本論文においては、本章で、その「典型例」と目される高橋亨の学問の性格について検討する。我々はそこに「原住民」を表象する際に、宗主国人のいかなる「欲望」が刻印されるかを見ることになるだろう。
第五章においては、「心田開発運動」政策というイデオロギー政策を中心に考察を進める。この政策は、戦時期総動員体制直前に国民統合を図るべく企図された政策の一つと思われるが、本章ではその性格と実態を、主に総督府に動員された当時の学者、知識人、宗教家の言説を引用することによって明らかにしていく。また、心田開発政策を朝鮮総督府の宗教政策の一翼を担った運動として捉え、当時の宗教観や日本人の朝鮮人観も視野に入れつつその特徴を剔出する。また本章の後半においては、それに続く総動員体制下の言説を概観する。
「宗教」をめぐる様々な立場の人々の「声」を取り上げ、その声が重なり合う「場」としての「植民地朝鮮」を設定すること。その「多声的な現場」の再構成が、本論文の最終目的である。

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