コンスタンチン・バリモントの前期作品における抒情的「私」の研究 ―間テクスト性という視点から―

寒河江 光徳

この博士論文は、バリモントの前期作品における「抒情的『私』」について研究するものであるが、バリモントの「私」の考察に「翻訳者・詩人」という観点を盛り込み、バリモントが「超人」と仰いだ詩人たちの綴るテクストとの関係性を考察し、作品分析をおこなった。また、バリモント以降に活躍したロシアの詩人のテクストにおける「抒情的『私』」とバリモントの作品における「私」を比較考察した。
バリモントは、自らの作品において、敬愛する詩人たちに対して、「超人」的イメージを用いているが、それをある時期から「私」の形象として用いるようになる。「私」が単なる「詩人のイメージ」ではなくて、「非・人格」化された形象にまで、発展する。そのような現象をバリモントの「私」の超人化と表現していいのであるならば、その現象は、『太陽のようになろう』と言う作品以降に現れる、といってよい。
序章において分析のための視点を語り、第2章から第5章まで、バリモントが最も敬愛した詩人たちの中で、レールモントフ、ボードレール、ポー、ゲーテ4人の作品を選び、それらの詩人に見られる創作手法を詩人バリモントがどのように自身の作品に生かしているか。「間テクスト性」という視点からバリモントの作品分析を行う。

第2章レールモントフとバリモント

レールモントフの代表作「帆」についてのロートマンの注釈を元に、バリモントの「倦怠の丸木舟」と比較考察した。ロートマンは、「帆」の空間構造を垂直軸と水平軸で捉えているが、バリモントの作品にも類似した構造が見て取れる。また、「沼の睡蓮」という作品の中にも似た空間構造がある。両者の作品に共通する特徴として、「私」がテクストの表面上にはあらわれていないことである。しかし、いつしか、描写する対象と詩人の気持ちが一体化しているという点で共通点がある。また、レールモントフの「太陽」とバリモントの「ベアトリーチェ」の比較考察を行い、ロマン主義的な自然と人間の対比の手法を検証した。

第3章ボードレールとバリモント

ボードレールの詩学とも言うべきコレスポンダンスの2つの要素、「普遍的類推」と「共感覚」という2つの視点からバリモントの作品を分析した。「太陽の香り」における「匂い」のイメージの増幅の仕方は、「照応」における「匂い」の増幅のイメージと共通する。ボードレールの作品「猫たち」とバリモントの「私の猛獣たち」を比較して、それぞれ、隠喩性、換喩性という視点から分析した。

第4章ポーとバリモント

ポーの作品「大鴉」とバリモントの「雨」を比較考察した。「大鴉」については、「構成の原理」の中でポーはその創作手法を明かしている。その詩論、および、「大鴉」を翻訳したバリモントは、その手法を用いて、作品を綴っている。また、同じくバリモントによって翻訳が手がけられた「鐘のさまざま」と「炎への賛歌」の比較分析を行った。

第5章ゲーテとバリモント

バリモントは自らの散文の中で、「超人」と言う語は、ニーチェ以前に、ゲーテや他のロマン主義者たちによって使用されていたことを述べている。バリモントがニーチェの作品に親しんでいたことは否定する余地がないが、もしかすると、ゲーテの作品の中に、すでに超人思想の兆候を見出していたのかもしれない。ゲーテの詩とバリモントの詩を比較し、ゲーテの「見ること」についてのバフチンの言説を紐解きながら、「空間的限界」の中に「時間的無限」を見出す詩学を、ゲーテとバリモントそれぞれの作品の中に見出した。

最終章

終章において、ロシア詩学において、そのようなバリモントの「抒情的『私』」がどのような意味を持つかについて、パステルナーク、ヴォズネセンスキーの代表的な作品と比較し、考察した。最後に何が言えたか?バリモントの「私」といえど、それは一言で論じられるものではない。アンネンスキーが述べた、バリモントの「私」の特性は、その「私」がバリモント個人とは独立したイメージであり、単なる擬人化された「詩人」というイメージにとどまるものではない、ということである。しかし、それは「詩人」というイメージが全く消えてしまったということにならないと筆者は思う。むしろ、バリモントの「私」は詩行ごとに形を変えていく。時折、「詩人」の姿を見せたかと思うと、「四大」との交感によって、「詩行」といつしか一体となり、非擬人化された形象に変わる。
最後に「間テクスト性」という視点と、バリモントの「抒情的『私』」という視点を統合すると、何が言えるか?バリモントの「私」は自ら詩人として作り出す前に、他のテクストの中に溶け込み、一体となる。それらのテクストをロシア語に翻訳し、いつの間にか、そこで得たフレーズをいつのまにか自身の作品にも借用する。つまり、バリモントの「私」とは、私というものを捨て去った姿とも言える。詩行に溶け込み一体となる姿をバリモントは「超人」と位置づけたのではないだろうか。

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