鎌倉幕府の政治史は「将軍独裁」「執権政治」「得宗専制」という三段階でとらえられており、末期を「専制」とする評価は一致している。しかし、そもそも前近代に専制的でない政権など存在しない。あえて「専制」と評価する「得宗専制」という認識の背後には、泰時期を是として鎌倉末期を非とする中世以来の価値観があり、再考を要する。本稿では、「専制」かどうかの議論を離れ、幕府を主導した北条氏の権力がいかに展開していったのかを都市鎌倉の様相とともに考察する。
第Ⅰ部では、都市鎌倉における北条氏の存在形態に注目した。北条氏の邸宅は将軍の御所に次第に接近して御所を抱え込み、将軍権力を取り込んでいた。邸宅の継承関係からは、北条重時の得宗に対する優位性が確認できた。北条氏は郊外に別業(別荘)を持ち、そこへの道も整備して跡地には寺院を建立した。鎌倉の境界の寺院も把握した北条氏は、都市鎌倉の骨格を作っていったのである。考古学の成果からは、13世紀中頃に都市の主軸が小町大路や横大路から若宮大路へと変化し、南北朝期以降は再び若宮大路の影響力がなくなることが分かった。甘縄という地域では御家人が相互に姻戚関係を深めて屋地を分割相続していたが、多くの御家人は鎌倉に常住せず、父・兄・弟といった一族内での在京・在国・在鎌倉などの分業体制をとって複数の拠点を一族で分掌し、それらを結ぶネットワークを形成していた。鎌倉の邸宅は一族で共有し、儀式に参加する時だけ鎌倉に来ていたのである。御家人達は鎌倉に集住していたのではなく、在地領主の性格を維持しつつ都市と関わりながら幕府と距離をとっており、北条氏によって排除されたわけではなかった。
第Ⅱ部では、北条氏の持つ所領と守護職を素材とした。得宗と一門は独自に所領を獲得しており、一門は得宗によって統制されてはいなかった。守護職についても同様である。時頼期の名越氏や重時流北条氏、鎌倉末期の鎮西における金沢氏や遠江の大仏氏の存在がそれを証明する。これを踏まえて北条氏所領の展開を追うと以下のようになる。初期の段階では北条氏の有力者がそれぞれ所領を獲得しており、その後個人としての得宗と家としての得宗家が並立するようになるが、不安定な立場にあった時頼は多くの所領を得られなかった。時宗以降は家としての得宗家が確立する一方で、幕府の職務に伴う所領も登場する。個人や家ではなく、幕府の役職が所領獲得の原動力となっていったのである。
第Ⅲ部では、北条氏の持つ守護職について検討した。得宗の分国として知られる若狭国の守護職は当初六波羅探題北方となった人物が終生在任するのが慣例であり、得宗が守護となるとかわりに摂津と播磨の守護職を探題が兼任するようになった。要地である若狭・播磨守護の任務遂行には、探題という幕府役職の権威が必要だったのである。また、「守護使」乱入の減少と「悪党」狼藉増加の背景には、対外防備を理由に幕府守護が役職として尊重され始めたことが想定できる。防備の拠点である長門の守護には鎌倉幕府の一番引付頭人の名代が就任していた。幕府の役職に守護の人選が規定されていたのである。守護の居所である「守護所」の用例は東国にはほとんど見られず西国に多かった。東国では守護の在り方が多様であり、守護であることを強く主張する必要はなかったが、西国ではその必要があったのである。その後西国では守護の現地赴任によって「守護所」用例が減少して守護本人を指すようになる。
本稿のキーワードは「個」と「職」である。「個」とは、個人としてその知名度や力量を期待される人物の存在およびそれを根拠とした権能を示し、「職」とは、鎌倉幕府の役職およびそれを根拠とした権能を意味する語として用いる。初期の段階は、北条氏の有力者が個々に活躍し、それら並び立つ複数の「個」から得宗家が浮上して推戴され、一門は「個」のまま「職」を享受するようになる。北条氏以外の東国御家人も何らかの秩序に組み込まれていたから、東国では「個」が「職」という布を被せられていたといえる。一方で、幕府役職と連動した守護職補任に見られるように、北条氏は「職」をもって西国に臨んでいた。管国に既得権のない東国御家人の守護が円滑に任務を果たすためには「職」を持ち出すよりほかなかったのである。幕府倒壊の要因は、西国における東国御家人の土着による「職」の「個」化と、東国における「職」の実体化による「個」の圧迫にあったのではないかと推測しておきたい。