本論文の目的は、ライナー・マリア・リルケ(Rilke,RainerMaria.1875-1926)の「世界内部空間(Weltinnenraum)」という理念を詩的言語の体系として明確に位置づけること、更にこの体系が人間存在の<声>の表現によって暗示的に具体化されているという仮定に基づき、その特徴と可能性を明らかにすることである。そのために全体を二部構成とした。
前半第一部では「世界内部空間」が詩的言語の体系として構想されるまでの過程とその特徴を考察した。詩人の『新詩集』(1907)とその別巻(1908)は、「物(Ding)」の理念に依拠していた。「物」とは、視覚によって客観的に表現され、ロダンの彫刻のように確固とした構造を持ち、時間的移ろいにさらされることなく永続的に実在する詩人にとっての理想的な芸術作品である。それと並行し、詩人は長編小説『マルテ・ラウリッツ・ブリッゲの手記』(1904-1910)において、この視覚を人間存在の内面により深く位置づけようとする。この『手記』の創作後、詩人は個々の作品を念頭に置いた「物」の理念に限界を感じ、人間存在の知覚と内的時間を解放することを目的として「世界内部空間」を構想するようになる。従来の研究ではあまり指摘されることはなかったが、この「世界内部空間」は、回想表現と共感覚表現、なかでも共感覚表現の一つの要素でもある触覚的かつ聴覚的な音声的表現によって構築される詩的言語の体系である。重要な点は、この体系の構想によって、詩人は、個々の作品としての「物」の実在ではなく、詩人自身を取り巻く「世界内部空間」の実在と、絶え間なく関係を結ぶことが出来るようになったと信じたことである。詩人の目的は、「物」の理念の段階から一貫して、<時間的な制約を超えた真の存在としての詩的言語を創造し、かつその真の存在に自身の生をも完全に従属させること>である。詩人はこの目的を、本来は詩的言語の体系であり、あくまで表現の領域にのみ関わる「世界内部空間」を実在の領域に重ね合わせて構想することによって、達成しようとしたのである。
後半第二部では、この「世界内部空間」が<声>の表現によって暗示的に具体化されていく過程とその可能性を、『ドゥイノの悲歌』(1912/22)(以下『悲歌』と略記)の「第一悲歌」(1912)の主題であり、理念でもある<死者の声>に着目して分析した。詩人は、『悲歌』において、「世界内部空間」の表現手法のうち特に触覚的かつ聴覚的な音声的表現を、人間の<声>として具体化している。<声>は、<生者の声>と<死者の声>の二種類から成る。『悲歌』の嘆きは、「この世」に生きる人間存在のものである<生者の声>が必然的に<死者の声>を求めざるを得ないもののその領域には決して達し得ない、というアンビヴァレントな状態から生み出される。そして詩人の目的は、キリスト教的な彼岸の思想に替わるものとして、「世界内部空間」が実在しているという形而上学を<生者の声>と<死者の声>によって示すことであった。<声>の表現は、この「世界内部空間」の持つ形而上学的な性質を効果的に暗示するために用いられている。「世界内部空間」は、<意味するもの>と<意味されるもの>をほとんど一致させ、かつ時間的な差異もないという状態を理想としており、基本的に同一的、一元的な性質を持っている。「物」の理念が視覚による客観的な構想を重視していたこととは対照的に、<声>は、聴覚的表現が主体と客体との距離を不分明にし、更に、音声言語が主体と世界との双方に即時的かつ即自的に対象を表現するはずである、という前提に基づいており、その結果「世界内部空間」がより強く暗示される。しかしその一方で、『悲歌』の<声>には、この同一化、一元化の方向を絶え間なく異化していく、他者性が含まれている。作品全体にわたって<声>は<呼びかける>―<応える>という応答関係に置かれ他者に開かれている。詩人の意図するところは「世界内部空間」の形而上学をより効果的に暗示することにあったが、この作品の<声>の可能性はこの空間を暗示しつつもその同一性を内側から揺るがし、他者へと開いていくことにある。
詩人は「第九悲歌」(1922)において最終的に「物」の理念を<声>の理念の中に統合している。そして『悲歌』の完成間近に、『オルフォイスへのソネット』(1922)において死者「オルフォイス」の「歌(Gesang)」を<死者の声>の最終的な在り様として理念化することにより、その後の創作の基盤をも得た。以上、第一部、第二部双方の考察を踏まえた上で、「世界内部空間」と<声>の表現による具体化は、中期から後期にかけての詩人の創作の中核であり、かつ詩人自身の人間存在としての生を<死者の声>に位置づけるという点から、詩人の生の有り様を決定付けるものでもあった、と結論付けた。