ベルクソンは、「イマージュ」という概念を用いて、観念論と実在論という哲学上の対立を乗り越えようとした。我々が知覚する限りにおいてあるものと、知覚とは無関係に存在するものの間の関係について、互いに対立した世界観を提示する観念論と実在論という二つの哲学を、イマージュというある特殊な概念を導入することによって、総合的に統一しようと試みようとしたのである。
だが、しかし、まさにそうした企図をもつことによって、ベルクソンのイマージュ論は、非常に多くの解釈上の困難を引き起こすものとなった。イマージュとは、一方において、「感覚を開いたときには知覚され、閉じたときには知覚されない」[MM,11]ような、我々の知覚に強く依存するものでありながら、しかし、他方において、「知覚する意識とは無関係に存在する」[MM,2]ものでもあるともいわれる。ベルクソンは、イマージュというひとつの概念に、知覚と存在という二つの側面を同時に含ませることによって、観念論と実在論の対立を乗り越えようとした。が、しかし、まさにそのことによって、イマージュ論は、解釈者によって「実在論」と見なされたり、「観念論」と評価されたり、整合的な解釈を許さないものとなったのである。
こうした解釈の困難は、認識論と存在論という、哲学における二つの問いの立て方の間に存する捻れに由来するものであるといえるだろう。「我々に知られうるものは何か」を問う認識論は、ロックにはじまる近代の認識批判以降、「存在するものとは何か」を問う存在論から峻別されるべきものとなった。我々に与えられる経験に忠実に世界を理解しようとする理論は、我々の認識を超越した存在の原因の探求から、厳然と区別されなければならないことになったのである。ベルクソンのイマージュ論は、我々の知覚と端的な存在の区別を、イマージュという同一の概念における「程度の差異」とみなすことによって、近代の哲学が厳密に区別してきた問題設定を逸脱していることになる。イマージュ概念が、とりわけ難解なものであるのは、それが哲学が歴史的に規定してきた問いの枠組みを越え出るものであるからだということができるのである。
では、そうした逸脱をもって、ベルクソンのイマージュ論は、無意味なものとして退けられるべきなのだろうか。そうではないということを示すのが本論の課題である。本論の検討を通じて、ベルクソンのイマージュ論が、これまでの哲学の歴史的な規定を無視して打ち立てられているものではなく、むしろ、これまでの枠組みを引き受けながらも、そこでは扱えきれない事柄を掘り出し、哲学の枠組み自体を乗り越えようとするものであったことが明らかになるであろう。ベルクソンのイマージュ論を、哲学の歴史に照らして考察することによって、その整合的な解釈が可能になると同時に、それが哲学の歴史において、ある根源的な見直しを求めるものであったことが明らかになるのである。