第一章では、ヒュームはロックの「観念」を「知覚」と言い換えただけではないことを明らかにした。つまり、デカルト、マルブランシュ、ロック、バークリらは、「観念」とそれを見る者としての「能動的な精神」の存在を自明視していたが、ヒュームの場合、それだけで存在するものは継起する諸知覚のみである。ヒュームの課題は、継起する諸知覚がどのように統合されていくかを、それを能動的に統合する知性や意志を想定せずに、できるだけ少数の原理に帰納して説明することであった。
第二章では、第一章の指摘を『人間本性論』(以下、『本性論』)第一巻の具体的な議論に即して論証した。また、ヒュームには積極的な言語論はないとされがちだが、ヒュームの議論は一般名辞の使用を可能にする諸知覚の統合のされ方の探究であったことに注意を喚起した。例えばヒュームによれば、「現実」「時間」「空間」「美」「徳」などは、諸知覚がある仕方で思い浮かべられるときに、それらの諸知覚に対して付与される名辞である。また、蓋然的推理批判における『本性論』と『自然宗教に関する対話』の顕著な連帯関係や、いわゆる「ヒュームの懐疑」と呼ばれるものについての解釈を提示し、ヒュームのいう「人間の科学」とは何であったのかを検討した。特に、humannatureを機械的に「人間本性」と訳すことから生じる混乱に注意を喚起した。humannatureとは、ヒュームの観察対象としての「人間的自然」であり、同時に、その生成の仕方について想定され、探究される少数の原理(=人間的自然の本性)という意味であるという解釈を提案した。
第三章では、なぜヒュームが観察者の視点を強調したのかを論じた。観察者の視点は、我々が世界について知ろうとするときだけでなく、自分の過去や未来の行動に関心をもつときや、他者の心を知ろうとするときにも採る視点である。我々は実に頻繁にこの視点を採っている。特に他者の心を知る際の「共感」についてのヒュームの説明は解釈の混乱を招いてきた。「情念の伝達原理」という不用意な表現を用いたヒュームにもその責任はあるが、論文では『宗教の自然史』を参照することによって、ヒュームの考える共感とはどのようなものであるかを明らかにした。端的に言えば、それは他者の心を思い浮かべたがる情念に促されて想像力が他者と自分を関係づけ、自分に馴染みの情念を他者の心に帰すというプロセスである。『本性論』第一巻・第二巻を通じて、ヒュームの観察は常に、情念の設定した目的を満たそうとして作動する想像力の働きに向けられている。自らの正当性に固執し続ける知性は、単独で作用し続けると自らの正当性を疑う事情を枚挙し続け、自らを否定してしまうのであった。したがって「理性は情念の奴隷であり、しかもただそうあるべきである」というヒュームの有名なフレーズは、彼の道徳的信念の表明などではない。我々の知性(理性)は、情念の必要を満たそうとする限りにおいて作動する。
第四章は、『本性論』第三巻をホッブズへの応答として読むことを提案した。すなわち、ヒュームは共感がもたらす偏愛を深刻に受けとめており、はたしてホッブズが言うように我々は自然状態を必然的に生じざるを得ないのかという問題を検討しているのである。ヒュームのねらいは、我々が相互的に共感しあうことが原因となって、互いに有用と感じあうさまざまなルールを生成、発展させることができるという議論を確立することであった。「一般的視点」というヒュームの論点もこの議論の重要な一部をなしていることに注意を喚起した。我々は身近な人々との交際によってこの視点を学び、この視点を遵守する習慣を身につけることによって、自分だけのパースペクティブよりも、この視点からのパースペクティブによって判断を形成するというルールを守るようになる。その結果、他者と共通の視点から一般名辞で語られる世界、すなわち「コモン・ライフ」が生成するのである。
しかし、共同体内での一致・協調を促進するために有用なルールを身につけるということは、共同体内部での価値観の閉塞と外部への排他性を生むであろう。ヒュームはこの問題に気づいており、『本性論』以後の著作においてそれを探究している。すなわち、たんなる同調でなく、より適切な判断力を身につけるにはどうすればよいのかという問題である。論文では、この問題についてのヒュームとアダム・スミスの見解を比較した。ヒュームの場合、情念の必要に促されて認識を形成してしまう我々の知性が抱える逃れがたい偏見への自覚を保つこと、そして自分のパースペクティブとは異なる「真の視点」を想定して他者とともにそれを探究する「寛容な」対話が重視される。ヒュームの知性批判は、そのような意味での「人間の党」への賛歌となっているのである。