本論文は『源氏物語』についての倫理思想史的考察である。
第一章「『源氏物語』における反復」では、光源氏における死の経験の反復において、光源氏は「あやし」「恋ひ泣く」「悲しむ」という形で死に対し、「捨てられた」「浮いている」「隔てられた」という思いを抱き、さらには自己の死を予感し、それらが「心細し」という感情に収斂すること、光源氏が以後も他の死の経験によって自己の死の予感を抱き、また自己の死の予感を潜在させながら他の死に出会うということを繰り返すことを論じた。
第二章「光源氏の存在の基底」では、『源氏物語』の中の「見る」というテキスト概念に着目して、「否定的な視線」と「肯定的・内在的な視線(〈見る〉と表記)」を抽出し、光源氏が自身の抱える巨大な〈心細さ〉ゆえに、女君たちの中に〈心細さ〉を〈見る〉存在であり、己れの〈心細さ〉を増幅させる〈へだて〉の克服を求めて〈見〉、また〈見られる〉願望をもつことを論じた。光源氏はどこまでも〈見る〉存在であり、〈見られる〉願望が達せられることはなく、最終的には阿弥陀仏の絶対的視線を求める〈心細き〉存在へと移行する。『源氏物語』とは、光源氏という人間の可能性を限界まで尽くし得る者が、その近くの者たちと限界まで絡み合いながら、どのようにして絶対性の入り口まで辿り着くかを描いた物語であると論じた。
第三章「〈心細さ〉と仏教」では、本居宣長の仏教批判の再解釈を通じて〈心細さ〉の定義を試みた。宣長のいう、「きたなくあしき所」である黄泉国へ行くこととしての、確定した死を死ぬ自己に対する諦めとしての「悲しさ」に対して、答えのない不確定な死が迫って来たときにそれまで自明のものとしていた間柄が崩れ、「死」の問いに独り直面する不安が〈心細さ〉である。「死」は「生」の形をとって偏在し、時に「死」が「生」の表面に露頭してくる。そのとき〈心細さ〉を覚える。したがって、〈心細さ〉とはただの感情であるのではなく、人間存在の根底についての直観である。独り独りが答えのない問いとしての「死」に直面するとき、〈心細く〉なる。そのとき傍らに光源氏のような〈心細さ〉を体現する者の存在があれば、問いに宥和を齎してくれることが期待される。「死」に対する高度の宥めをもつ光源氏は、「死」という問いの扱い方を教えるであろう。答えのない問いである「死」を、「生」における〈心細さ〉へと変換し、さらにその〈心細さ〉を光源氏が〈見る〉ことによって、位置づけようとするのである。