本論文は、近世中期末、天明期(1781-1789)前後に江戸において大いに人気を呼び、以後、近世後期にかけて大流行をみた、天明狂歌と呼ばれる狂歌の流行現象とその所産について考察するものである。
第一章「天明狂歌の特質」では、天明狂歌の本質的要素や、その展開において中心となった興行・出版形式を取り上げ、それらのあり方とその変遷について考察する。第一節では、天明狂歌を特徴づける、ふざけた狂名の意義とその変質を論じる。天明狂歌師はある面で虚構の人格ではあったが、作者実体の滑稽化でもある。大流行にともなって媒体上で肥大化することで、この戯れが元来内包していた韜晦の要素が失われ、狂歌師人格の虚構性に対する意識も薄れたことが、天明狂歌を一面で特徴づける大衆化をもたらした。第二節では、天明狂歌の最大の特徴とされる江戸賛美の具体相について検討する。天明狂歌にはたしかに江戸名所詠が多いが、それらは技巧・趣向を優先し、叙景的表現は一般的に少ない。それが、江戸名所絵本に取り込まれ、また狂歌壇の大衆化によって作者層が地方にまで広がりを見せるにともなって、平明な叙景的表現へと変化することを述べる。第三節では、点取り狂歌という、判者・催主が兼題を提示し、入花料をとってそれに対する狂詠を一般募集し、その成果として高点歌を簡易な丁摺り(返草摺物)を出す、俳諧・雑俳などとも共通する商業的な興行形態が、文化期以後の狂歌壇の中心的な活動となるまでに発達した過程を把握する。第四節では、摺物(一枚刷り)の出版形態が、揃い物となることで集団の発行物として天明狂歌の展開の中で役割を拡大してゆく過程を、狂歌画賛入り錦絵や私家版の絵入り狂歌本の出版動向などと対照しながら明らかにする。
第二章「大田南畝の狂歌と狂文」では、天明狂歌壇の盟主であった四方赤良こと大田南畝の文事における狂歌および狂文の位置を考察する。第一節では、天明狂歌が、従来、それ以前の狂歌との異質性ばかりが強調されてきたことに疑問を呈し、近世初期狂歌を尊重する一方で、それ以後の上方狂歌を軽んじる南畝の狂歌観には、江戸に対する愛着が大きく影響していることを述べ、とくに『春駒狂歌集』を著した藤本由己という近世中期の江戸の作者と南畝との歌風・技巧の類似に、影響関係が想定できる可能性を指摘した。第二節では、寛政期の南畝と狂歌の関係を論じ、改革政治への遠慮、大衆化・通俗化した狂歌壇への嫌気など、自身を狂歌から遠ざける要因がありながら、狂歌を捨てきれなかった理由として、狂歌という表現形式に対する、遊びの次元を超えた親しみを確認する。さらに狂歌に典型的に見られる彼の言語遊戯への関心と適性を、和歌の作例を参照しながら照射する。第三節では、漢文作品「七観」を軸に、狂歌とともに発展した狂文や戯作の文体と、自らが本領とした漢詩文との関係を論じ、狂歌・狂文、また洒落本などの戯作と、漢詩文との表現形式としての連続性を検討する。
第三章「元木網夫妻とその門人」では、第一節で天明狂歌の主導者の一人であった木網を、第二節でその門人であった鹿都部真顔とその仲間連中数寄屋連を採り上げて、その活動と作品を検討する。木網や真顔では、もともと戯作であるはずの狂歌が、戯作ではなく、その文学活動の中心となる。そうした事情が、その狂歌観に、作品にどのように反映されるのかを鑑みながら、真摯な自己表現の形式としての天明狂歌の一面を照射し、木網から真顔へと連なる一つの血脈を浮かび上がらせる。第三節で木網の妻で天明狂歌随一の女性歌人であった智恵内子を中心に、〈女性らしい〉とされる作風の語彙から文体にわたる作為性/構築性を検討し、その女性性の強調と古典歌人のやつしとしての天明狂歌師像の演出が一致したところに自己表現があったことを論じる。
以上のように、「天明狂歌」は、一つの流行現象として、そのあり方・作風、活動・出版方式などさまざまな面で、一定の傾向・特質が抽出できる一方で、背景・経歴を異にする多くの狂歌師連中がさまざまに関わり合って行われた活動と、その所産の総体であるだけに、その意義もあり方も多様であることを明らかにした。