生存の義務 ―〈救貧制度と日本近代〉の社会学的研究―

冨江 直子

本研究は、戦前日本の救貧制度の形成過程を、政策理念を語る言葉の振る舞いに着目して解明することを目的としている。明治期から大正期を経て総力戦期に至るまで繰り返し強調され続けたのは、‘救済とは、人格の完成によって、一体としての〈全体〉への貢献を果たすことを可能ならしめることに他ならない’という救貧理念であった。個人の権利でも一方的な慈恵でもなく、‘〈全体〉への主体的な参加の義務’が、戦前日本の社会事業に響き続けた強い理念であった。この救貧理念が、「大正デモクラシー」期から「戦時体制」期へという時代の変化のなかで、どのように再生産されていったのか、あるいはどのように意味を変容させていったのかを、‘政治過程の言説実践’として分析する。
第1章では、傷病兵・軍人遺家族に対する特別救貧法で、日本で最初に公的扶助義務を規定した軍事救護法(1917年制定)の形成過程を分析する。自由民権論の要である徴兵制度と救貧制度との接点としての軍事救護法は、倫理的共同体としての国家と機関説的国家という二つの国家論の戦場であり、国民主体創出という目的と密接に関わりながら形成された。
第2章では、日本で最初の一般救貧制度である救護法(1929年制定)の形成過程を分析する。「大正デモクラシー」期には、「社会」という言葉が政府内外で流行したが、この「社会」という言葉は、救護法をめぐる政治過程の言説実践において重要な役割を演じた。「社会」をめぐるレトリックは、国家と個人とを二者関係として捉えることを可能としつつ、〈全体〉に外在する個人という観念を消すことによって、個人の権利なき公的救済義務の制度を意味づけたのであった。
第3章では、救護法の運用のしくみと、救護法運用を担った方面委員について検討する。救護法の運用過程において、国家の法制と民間のボランティアである方面委員活動とは一体の制度となっていた。このことは、救護法による救済の性格に対して決定的な意味を持った。「社会」=方面委員が、国家と個人との間を媒介することによって、救護の義務を負う主体としての国家と救護に対する権利を持つ個人という二者関係が成り立つことを阻んだ。また、方面委員は、法に基づく物質的救済を否定し、人格的な融合による精神の救済を基本理念とした。このような形で、方面委員という「社会」が国家の法制の中にも個人の意思決定の過程にも浸透し、国家と個人の両者の輪郭を弱めていた。
第4章では、1930年代後半の‘戦時革新’論における救貧制度の構想を検討する。「国民生活の安定」が国策となり、人的資源という視点で国民が捉えられるという状況の中で、社会行政の‘革新’が期待された。そして、人間を生産資源であるモノとして捉える「生産力理論」によって、従来の精神主義的救貧理念が批判され、物質的救済、「胃の腑」の保障の合理性と正当性が主張された。この議論は、救済対象を人格としてとらえ、救済をあくまでも精神的なものと意味づけてきた社会事業論に、大きな転換をもたらす論理的な可能性を持っていた。
第5章と第6章では、社会事業の「生産力理論」が、どのように制度として現実化していったかを検討する。第5章では、当時社会事業施設の8割以上を占めていた私設社会事業者に対する国家の監督と助成を定めた社会事業法(1938年制定)の形成過程を分析する。政策形成の場においては、「生産力理論」のボキャブラリーと精神主義的救貧理念が折衷され、批判の論理は換骨奪胎されて従来の救貧理念に同化してしまった。第6章では、貧困母子に対する救済制度である母子保護法(1937年制定)の形成過程を分析する。ここでは、人的資源論に基づいて、精神も身体も含めて人間を丸ごと生産資源として捉える社会事業論が展開された。
終章では、以上の分析を踏まえて、戦前日本の救貧制度の理念であった‘生存の義務’について考える。

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