本研究は、柳宗悦(1889~1961)の工芸美学における芸術と社会の問題を考察し、彼の民芸運動にみられる「美的生活」に関する思想を明らかにするものである。
柳の民芸運動は「民芸」という新しい「美」を発見したという重要な意義をもっており、その意味で彼の民芸論は美の問題を扱っている。しかし柳の意味した「民芸」を正確に理解するのは容易ではない。民芸は、その対象においては庶民の日常道具と同様であるが、民具そのものが本来持っていたコンテキストから切り離し、「芸術」としてカテゴリー化したものであり、また異国のもの(例えば「朝鮮民芸」)に関しても、それをそのまま受容したわけではなく、「日本独自の解釈」を加えたものであって、そういう意味で民芸運動はある前衛性さえ持つ非常にユニークな芸術運動であった。
本論文の構成は四章から成り立っている。まず第一章では、柳の工芸美学を可能な限りその時代の文脈の中で客観的に理解するために、柳の民芸運動の形成と展開過程を考察した。そのような分析を通して、柳による民芸概念の定義と造形芸術のなかにおける民芸の位置づけ、彼の理想とする民芸様式などを明かにした。続く第二章では、その第一節と第二節においては主として、美学者や美術批評家の美論の根底には彼らの美意識が潜在しているという仮説に基づいて、柳が美的性質の問題を論じた一連の論考を手掛りとして彼の美意識の一面を探るとともに、そもそも白樺派の同人として西欧近代美術を紹介し天才を賛美していた若き柳が、なぜ三〇代に入ってから急に近代化以前の民衆に最高の美の創造者たる権威を与えるようになったか、という問題を考察した。また、第三節では柳の工芸美論に宗教的特質が強く現れることに注目し、彼の宗教観を検討することによって、彼の主張する「宗教」と「美」との類似性がいかなるものなのかを探った。そして最後の節では、柳が晩年に提唱した「仏教美学」の内容とその提示の動機を検討し、彼において理念としての美はいかなる特徴を持っているのかを検討した。第三章では、柳が民芸の問題を常に風土と民族の問題と関係付け、芸術と民族との密接な関係を強調していることに留意しつつ、芸術と民族に関する柳の思想を考察した。そもそも柳の民族と芸術に関する思想が芽生えたのは、民芸運動に携わるまえ、すなわち彼が朝鮮とその芸術に関して興味を持ち始めた頃だと考えられる。従ってこの章では、「朝鮮」とその芸術および沖縄の言語論争に関する柳の理論と実践に基づいて、彼が芸術と民族の関係をどのように捉えていたのかを明らかにした。
柳の工芸観には工芸の問題を常に社会との関係のうちに捉え、「美」と「道徳」とを同一視する傾向があるが、その理由を探るために、第四章では、芸術と社会に関する柳の思想を考察した。特に明治から大正時代にかけて、美術工芸運動家としてよりはむしろイギリス社会主義を代表する独特な社会主義者として日本に知られていたウィリアム・モリスと彼の師であるラスキンの芸術的社会主義が、果たして柳の工芸美学にどのような影響を与えたのかを明らかにした。
こうした作業をとおして、近代日本の工芸史において柳宗悦という人物が占める位置と、彼の工芸美学の全体像がある程度明らかになったと考えられる。しかし、本論文の最後の課題はこれら四章の考察を基にして、柳が民芸を媒介にして理想と考えた生活の形態、すなわち柳にとっての「美的生活」とはいかなるものであるのか、を明らかにすることであったので、最後にそれに関する考察を加えた。