本論文は、19世紀前半のドイツにおける「教養」理念に注目し、それを市民層と音楽という文脈の中で分析することにより、この理念自体への信頼がどのように作られ、またその信頼がどのように維持されたかを明らかにするものである。ドイツではすでに歴史学における教養市民層研究が積み重ねられているが、本論文はその成果に依拠しつつ、理念の次元に照準することによって、これまでとは異なる知見を提示するものである。そしてまた、本論文は具体的な分析部分で従来の音楽史を再解釈しているがゆえに、既存の音楽学への批判という意味で音楽社会学的研究ともなっている。
18世紀末のドイツ市民は、どのような条件をもってしても定義できない残余カテゴリーとして存在していたが、自らの位置が不安定な彼らが積極的に市民であろうとして注目したのが教養理念であった。この理念は、貴族の血統や称号という先天性に対抗すべく、生きている限り自力で向上過程にあり続けることを主眼とするものであったために、必然的に到達不可能なものとして設定された。常に途上過程にあることが市民の証明となるのである。本論文が重要な前提として置くのは、教養理念がそもそも具体的な最終目標を置かないもの、すなわち空虚なものであったという点である。これは、しばしば見られるように、教養市民層を官吏任用試験による資格と共に論じる立場とは全く異なる前提である。その仮定のもとに19世紀前半の音楽活動――合唱協会や音楽祭、市民的天才像の構築、鑑賞作法の成立、音楽ジャーナリズムなど――を分析した。とりわけ、教養としての音楽の観念を検討してみると、19世紀前半に音楽芸術は語りえないものとして改めて意味づけられており、それにもかかわらず音楽を語る言葉は増加し、制度化されてゆく。到達不可能なものの究極としての音楽を分析してみると、そこに空虚な理念を空虚なままに本質化する、すなわち本質があるもののように見せかけて信じさせる構造が仕組まれていたことが明らかになる。
音楽を典型として分析対象にしたことにより、教養理念そのものに潜む本質化という論理を導いたことが本論文の重要な結論となる。本質化された理念は、不可侵で疑われることはない。このような本質化は、教養理念においても、音楽においても、そしてまた同様に空虚な理念として設定されたドイツという理念においても、同じように起こると考えられるのである。