本論文の出発点は、アルフォンス・ドーデの『最後の授業』に描かれた、フランス・ナショナリズムにおけるエルザス・ロートリンゲン民衆学校とその教員のイメージであった。すなわち、暴力的で、非寛容なドイツの学校教育とそれを体現するプロイセンからやってきた教員。プロイセン軍国主義的価値観(「臣民の学校」)、ドイツ国民意識の強制的な注入。そしてそれに対してフランスへの愛国心を抱き続ける住民たち。このナショナリズムによって作り上げられたイメージは、興味深いことに、ドイツ社会史の第2帝政史理解、すなわち「ドイツ特有の道」論とも共鳴するものであった。いわく、エルザス・ロートリンゲン人は、ドイツ帝国の政治体制のもつ権威主義的性格、硬直性のために、帝国には決して統合されなかったと。この見解の代表的な歴史家であるハンス・ウルリヒ・ヴェーラーは、第1次世界大戦直前の「ツァーベルン事件」などを題材として、それを立証しようとした。
しかし、初等教育政策を対象としてきた本論文の成果はこれを支持するものではない。政教関係(第2章)、言語教育政策(第3章)、国民意識の涵養(第4章)の分析から、むしろエルザスロートリンゲンのドイツ教育行政の柔軟性が強調される。すなわち地元のカトリック教会や名望家層との妥協、フランス語圏における母語フランス語の容認、地域意識(「郷土」)を活用したドイツ国民意識の涵養がそれである。しかし、この「寛容さ」とは、あくまで教育制度における国家の監督権を前提としたものであり、個別的な妥協によって地元の政治勢力を取り込んでいこうとしたのである。ドイツ帝国の東部、ポーランド人地域との比較から、このような妥協が可能であった条件として、帝国直轄領という政治体制、多数派としてのドイツ系住民、フランス文化とスラブ文化に対するドイツの視線の相違をあげることができる。
この政治統合の上でのエルザス・ロートリンゲン教育政策の柔軟性は、他方で、世紀転換期以降の近代化の進展のなかで政府が守勢にまわることを意味した。第5章において検討した教員の組織化のプロセスやシュトラースブルク市の教育政策は、そのことを裏付けるものであった。
相対的に寛容であった、エルザス・ロートリンゲンの初等教育政策は、第6章においてみたように、第1次世界大戦において前線地域となり、軍による戒厳令が敷かれたこともあいまって、ドイツ国民教育の強化をもたらすことになる。ナショナリスティックな教育内容とフランス語圏におけるフランス語教育の制限がそれである。しかし同時に、4年間にわたる総力戦のなかで、教育環境は著しく劣悪化し、義務教育の規律も低下することになった。このことは、強化されたドイツ愛国教育のメッセージの伝達を困難なものにすることになった。
1918年11月、エルザス・ロートリンゲンは47年ぶりにフランスのもとに帰還し、フランス人としての『最初の授業』が行われることになる。しかし、そのフランスは47年前のフランスとは大きく異なるものであった。フランスにおいては20世紀初頭に政教分離が断行されたが、エルザス・ロートリンゲンでは公教育における宗教の重要な地位が維持された。この約50年間における両国の国民統合のあり方の相違は、言語問題とともに、その後のフランスへの「再統合」にとって大きな負荷となるものであった。ただし、世俗・中央集権的国民国家フランスによる統合が、連邦主義的国民国家ドイツよりも抑圧的であったとすることは短絡的である。エルザス・ロートリンゲンは、1940年、1945年にふたたび『最後の授業』、『最初の授業』を経験することになるが、ドイツかフランスかにかかわらず、そのたびに統合の圧力が強化されることになるのである。