革命前のロシアの大衆小説 ―探偵小説、オカルト小説、女性小説―

久野 康彦

当論文で扱うのは19世紀後半から20世紀初頭にかけてのロシアの大衆小説である。ロシアでは1860年代の改革の時代以後、都市化の進行、読み書き能力の普及に伴う読者層の拡大、出版産業や新しい大衆的メディアの発達などを背景に様々な大衆文学が書かれ読まれていた。その多くは今日忘れられてしまったものの、それは革命前のロシアの文化史の貴重な資料であると同時に、「主流の文学」に現れないテーマや観念を見いだせる点で当時の文学状況の全体像を再検討する鍵ともなりうるものである。この論文では革命前のロシアの大衆文学のうち「探偵小説」「オカルト小説」「女性小説」という3つの特徴的なジャンルを取り上げ検討してゆく。

(1)探偵小説
論理的推理の要素を必須とせず、犯罪を捜査する過程を語る物語と探偵小説を広く定義するならば、そのようなジャンルは革命前のロシアにも存在していた。19世紀後半を代表する「探偵小説」の作家がアレクサンドル・シクリャレフスキー(1837-83)である。彼の作品は犯罪心理に対する関心を極度に誇大化させている点で、同時代の英米やフランスの探偵小説と異なる独自の位置を占めている。一方、20世紀初頭のロシアに新たに登場したのがナット・ピンカートン、ニック・カーター、シャーロック・ホームズなど有名な外国の私立探偵を主人公にした「分冊シリーズ探偵小説」である。これは一般に教訓性の強いとされている革命前のロシア文学においても徹底した娯楽性を打ち出している点で注目に値する。

(2)オカルト小説
19世紀後半のいわゆるリアリズム期のロシア文学においてオカルト小説の多くは大衆文学の領域で書かれていた。当時の有名な大衆小説作家フセヴォロド・ソロヴィヨフ(1849-1903)の連作長編『魔術師たち』(1888)と『偉大な薔薇十字団員』(1889)、および十月革命前のロシアで最も人気を誇った作家の一人であるアレクサンドル・アンフィテアートロフ(1862-1938)の長編『火の花』(1895,1910,1911)は、それぞれ作家の個性を反映させながらも、実証主義的な発想がまさしく幻想表現を作り出している点に特徴がある。
一方、19世紀末から20世紀初頭にかけてロシア・シンボリズムの詩人・作家たちの台頭とともにオカルト小説が「主流の文学」で復権する。だがロシア人女性エレーナ・ブラヴァツカヤを創始者とする神智学のよりストレートな影響が見られたのは、大衆的なオカルト小説であった。革命前のロシアにおける最大のオカルト小説作家ヴェーラ・クリジャノフスカヤ(1857-1924)の長編『ある惑星の死』(1911)と『立法者たち』(1916)は、神智学が本来持つ西欧の近代文明批判の観点を継承しながらも、オカルトと科学の結合、宇宙的な進化のビジョンなどに独自の文学的ファンタジーを見せている。

(3)女性小説
女性が書き手であり、男性の書き手にはない女性独自の視点を反映させた小説を「女性小説」とするならば、そのような小説が既成文壇を脅かすほど大きな勢力となったのは、ロシアではまさに20世紀初頭であった。とりわけセンセーショナルな恋愛を描き当時の最大のベストセラーとなったのがアナスタシヤ・ヴェルビツカヤ(1861-1928)の大河長編『幸福の鍵』(1909-13)である。この小説は女性のセクシャリティと「革命」の問題を結びつけた点で当時の文学の中でもひときわ先鋭的な位置を占める。一方、「少女小説」でロシアの少女たちの圧倒的な人気を得ていたのがリジヤ・チャールスカヤ(1875-1937)である。彼女の小説には冒険小説的な枠組みのうちにジェンダーと国家の問題の興味深い反映を見ることができる。

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