光源氏物語論

木谷 眞理子

本論は、以下の五篇から成っている。「第一篇或る世界観の成立」、「第二篇第一部の世界」、「第三篇物語を通観する」、「第四篇源氏絵と源氏物語」、「第五篇或る世界観の終焉」。見てのとおり、第一篇と第五篇は呼応している。そこに言う「或る世界観」とは、『古今集』成立前夜から、十二世紀のおそらくは半ば頃まで、人々の心の底にあったと思われる世界観である。それが如何なるものであったかを知るためには、当時流行した、和歌をともなったやまと絵屏風を見るとよいであろう。
屏風絵─屏風歌の多くは、四季あるいは十二ヶ月の情景をあらわしている。画面上には四季折々の情景が、山や川、霞、樹木などによって互いに隔てられつつ、季節の順に画面右方から左方へと、ちりばめられていたらしい。各情景は、屏風歌とともに鑑賞されるのであるが、その屏風歌は基本的に、画中の人物となって画中の風景を詠じたものであり、鑑賞者をして絵のなかに入り込ませる力を備えている。鑑賞者が、一つの情景を見、歌をよんで、その情景のなかに入り込んでいくとき、画中人物には血が通い、その人物の生きる時間が流れはじめ、風景はみずみずしく生動して見えるのである。一方ではまた、この種の屏風が四季の情景をすべて取り揃えて見せていることにも、意味があるはずである。鑑賞者が屏風の全体を大きく眺めわたすとき、四季の情景がすべて同時に目にされるのであるが、その四季共存の光景は、永遠の理想郷のものにほかなるまい。屏風絵─屏風歌は、一つ一つの情景を注視していくとともに、屏風全体の大観をもして、鑑賞するものなのである。
では屏風絵─屏風歌を、大観と注視をともにして鑑賞するとき、何が見えてくるのであろうか。屏風中の或る情景の或る人物を注視するとき、つまり或る画中人物になって歌をよむとき、その人物は時間のなかに生きるいきいきとした存在として現れてくるが、屏風全体の大観へと転じると、時の流れのない、永遠の世界が見えてきて、個々の情景、個々の画中人物はその大きな世界のなかに溶け入ってゆくのである。大きな永遠の世界に完全に溶け入ることはすなわち死ぬことであろうから、つまり、こういうことになる──人間はいまにも永遠の世界に溶け入りそうな存在であるが、歌を詠むことなどによって、時間のなかに生きる主体を確保して、死から遠ざかることができる。このような人間観・世界観が、屏風絵─屏風歌には表されているということである。
この屏風絵─屏風歌と同様の構造をもつのが、『古今集』であり、あるいは、『源氏物語』のなかで光源氏がつくった自邸六条院である。『古今集』は、四季の歌を取り揃え秩序だてて提示しているし、六条院は、春と秋の両町を主として夏の町・冬の町もあわせた四町から成っている。一つ一つの歌を注視し、一つ一つの町の一人一人を注視すれば、時間のなかに生きる人間のすがたが見えてもこよう。とはいえ、六条院の四町全体、『古今集』の全体を見渡しても、四季が共存する永遠の理想郷がたちあらわれてくるわけではなく、その秩序だったさまに驚かされるばかりなのである。精妙な秩序をもって組みあがっている六条院や『古今集』はむしろ、永遠の世界に呑み込まれそうな人間が、時間のなかに生きる主体を確保する、その拠り所となるものを提示しているのであろう。言ってみれば、人間が永遠の世界に抗するための砦である。『古今集』は、人間が四季折々、あるいは恋のさまざまな展開のなかで、その他人生のさまざまな局面において、いかなる歌を詠んで生きていくべきかを定めている、一種の法律、人間生活の手本である。六条院もまた、そこに営まれる生活が、人間生活の手本となっている。これらの手本にしたがって人々が歌を詠み生活を営んでいくとき、美しく秩序だった世界がたちあらわれてくるはずなのである。『古今集』や六条院の全体とは、その美しく秩序だった世界の、雛形にほかならない。
『古今集』や六条院が雛形を示しているような世界──永遠の世界に溶け入りそうな人間の、拠り所となり砦となる秩序の世界──を、理想として夢見た時代が、『古今集』成立前夜から十二世紀半ば頃まで続いたであろうことを、第一篇と第五篇は論じている。そして、そのような時代の理想像としての光源氏を、彼の物語を、さまざまな角度から見ていったのが、第二篇~第四篇なのである。

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