近代中国における国境意識の形成と日本 ―間島問題をめぐる宋教仁と呉禄貞の活動を中心として―

高 士華

本論文は1907年8月から1909年9月までの間島問題をめぐる中日外交交渉を通じて、近代中国における国境意識の変容とそれと日本の関係を究明しようとする。
1907年8月、日本政府は統監府間島臨時派出所を開設したから、中朝の国境問題を中朝交渉から中日交渉に移させて、所謂「間島問題」が始まった。二年間余りの交渉を経て、ついに1909年9月「間島協約」を締結した。宋教仁と呉禄貞はその交渉に加わって、積極的に行動し、著作も残した。本論文は両氏の間島交渉についての役割と著作を分析し、中国の国境意識は清朝前期から近代にかけてどのように変容したか、両氏は日本のどのような国境意識の影響を受け、交渉の中でどのような役割を果たしか等を究明する。また近代中国における国境意識の政治的性格も把握しようとする。総じて間島問題の交渉が近代中国の国境意識の形成史における位置と意義を明らかにしようとするものである。
研究史の経緯からみると、間島問題の研究は三つの特徴がある。第一に、清朝前期における中国国境(中朝国境を含めて)の特徴は「曖昧不明論」、「無国境論」など否定的指摘が多い、第二に、これまでの研究者たち、特に中国と韓国の研究者は間島の領有権をめぐって、自国の領土であることを証明することが多い。第三に、近代中国における国境意識形成史の一環として間島問題を捉えることが少ない。特に、宋教仁と呉禄貞の間島問題交渉に関する役割、そして留日経験がある両氏の国境意識と日本との関係についての研究はおろそかになっている。しかしながら、清朝前期における中国国境の特徴について、近代的国際関係論の角度からの議論があまりにも多いが、前近代における国境の実像を究明することが難しい、そして近代への国境意識の変容を解明することもに不利になる。単純な領有権の論争を超えて、「版図」、「彊域」、「辺界」などという中国の伝統的な概念から、中国に固有である国境の空間構造、理念などを分析して、宗主権時代にある中国国境の全体像から間島問題の流れを把握するほうがよい。文化境界と政治境界そして国家安全論の角度から、交錯する文化境界線、政治境界線、国家安全防衛線の消長を具体的に説明して近代中国における国境意識の特徴を究明することが本論文の使命である。近代中国の領土の範囲に規定され境界の研究は、想像的政治共同体として中国近代における国民国家像・ナショナリズムの正体に対する解明にも寄与できると思う。
清朝前期には中華世界を支える超国家的文化境界線を強調し、理想的な国家安全防衛線も政治の国境線から離れ、朝鮮は中国の国家安全防衛線として認識され、中国を守衛する(いわゆる「守在四夷」)。国境についての認識は朝貢システムの宗主権の下で相対化、弱体化された。しかし、近代への変容過程に於いて逆に文化境界線、国家安全防衛線が収縮され、強化、絶対化された政治境界線と統一した。このような歴史背景の変化から考察すると、清朝政府における国境認識の全体像を把握できるであろう。
宋教仁と呉禄貞は日本での留学経験をもつ辛亥革命時の有名な革命者であり。宋教仁は間島が清朝の固有の領土であることを証明する『間島問題』を著したが、呉禄貞は辺務幇辧、督辧として主な間島交渉に参加し、日本側と激しく対抗した。両氏の日本の留学経験は彼らの思想にどんな影響があるか、この影響は日本の思想か、ただの日本からの思想か、或いはこの影響は「思想」なのか、「思想の材料」だったかなどについて、宋教仁の『間島問題』と呉禄貞の『調査延吉辺務報告』を利用して分析する。それ以外に、宋教仁と呉禄貞の比較もおこなう。両氏とも日本に留学した経験があり、革命派でもあり、間島問題の交渉に加わった目的も同じである。要するに清朝「政府」のためではなく、中国「国家」の主権、領土を守るために、国境交渉に積極的に介入した。しかし、両氏は留学の時期も違い、見方を表明する立場も異なる、呉禄貞は清朝の官吏で、宋教仁は単なる民間人である。そして宋教仁の『間島問題』と呉禄貞の『調査延吉辺務報告』とはいくらかの相違点がある。それらの相違点の比較を通じ、両氏の国境意識の原点を探し求め、そしてその原点と伝統的な国境意識の関係、日本での影響の有無、もしあるならばどの程度であったかなどを究明しようとする。
両氏は国境を越えて日本で学んだ近代的知識を利用して、日本の進出と対抗して間島問題の交渉を成功させ、中国の国境を再構築することに力を尽くした、ここには中国における近代国境形成史の中での日本の役割の両面性が典型的に表われた。日本における陸上国境思想の不発達と近代國際法の特性によって、日本からの国境意識の影響は「思想」よりむしろ「思想の材料」ほうが多いとはいえるであろう。
実際の間島交渉は三国両方と関係があり、しかしながら、当事国としての韓国の役割がほとんど見られなかった、清朝政府は日本の進出に抵抗した以外、韓国を強く非難し、韓国のナショナリズムも無視され、そこからみると、東アジア近代史の複雑性もみえるであろう。
近代の中国は伝統的な版図が縮小されながらも同時に補強、整備され、古い帝国時代の版図が最大限的に保存され、現代の中国の領土となった。

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