芭蕉没後、蕉門は大きく其角・嵐雪等の都会派と、支考・麦林等の田舎蕉門に分かれていった。ともに従来の俳諧史研究では軽んじられてきが、芭蕉の目指した俳風と異なるからといって一概に否定されるべきものではない。特に洒落風は、俳諧史上、句に趣向を構え、技巧を誇るという点でひとつのピークであったと考えられる。しかも、その趣向が付け方よりも一句の仕立てにおいて発揮され、次第に付けることが忘れられていった、という点で特殊な時代であった。以後、俳諧文芸において、連句より発句に重点が移って行ったことを考えれば、この時代は重要な転換期にあたっていたといえよう。本稿は、この江戸の洒落風が上方にも移り、流行・変容していくさまを考察したものである。第一章から第五章までは京俳壇、第六章から第九章までは大坂俳壇を扱っている。また、淡々の年譜と、俳書を中心とした大坂俳壇の年表を作成し、本論の附録とした。
元禄期には穏やかな連歌風の俳諧が主流となった上方俳壇だが、やがてそれに飽きたらない俳人が現われ、より主知的な江戸俳風に関心を示すようになる。そうした京俳人たちの興味を背景に、宝永から享保にかけて、江戸の洒落風俳人たち、仙鶴・淡々・紹廉・祇空・巴人が相次いで上京した。中でも淡々は京摂の俳諧に大きな影響を与えた人物である。淡々は享保二年の『にはくなぶり』、同四年の『花月六百韻』において、恋の詞や季の詞を抜いた作意の強い俳風を世に示す一方、一句の点を極端に高くした点取俳諧を導入し、その結果、上方俳壇に一句立の風が流行することになる。当初は付けることを必ずしも忘れていなかった淡々自身の作風も、やがて付けよりも一句の趣向を重んじる方向に傾き「一句一評」と称されるようになった。その結果、前句を全く省略した形での高点付句集『春秋関』(享保十一年)が刊行されるに至る。淡々上京当時、京俳壇の最大勢力であった貞門俳人は、そうした淡々流の点取や作風は受入れたものの、付合を守る意志は貫き続けた。やがてそれは丈石に代表されるように、積極的な反動となって貞徳への復古に傾いていく。しかし、古風の俳諧に魅力は少なく、地方から多数の有力宗匠が芭蕉への復古を唱えて京俳壇に流入してくる中興期には、貞門は主流の地位を失っていく。これに対し、支麦系とも交渉を持ちつつ独自の立場を維持していた巴人門宋屋の門下には、嘯山・蝶夢が出て、京都の中興運動の中心となって活躍している。また、京俳壇では明和に入って蕪村が本格的な活動を開始する。蕪村もまた、嘯山からは「江戸風」と評されていた俳人であった。巴人を介して其角・嵐雪に繋がる蕪村は、平明な作風が蕉風として通行する中で、作意を愛した俳人である。平明に埋没せず、また技巧に溺れないという蕪村の句の微妙なバランスが、その句の世界を豊かなものにしているのである。
大坂では、享保末、淡々が京都から移り、先に来坂していた紹廉とも競合しながら、談林中心の俳壇にも淡々流を広めていく。淡々の一連の活動は「スピードと大量性」という言葉に象徴されるが、紹廉門は矢数俳諧の興行、布門門は奉納四季発句合や雑俳、椎門・祇空門は雑俳中心、と独自の活動も交えながら、その特徴は大坂俳壇全体の傾向となっていった。とりわけ紹廉門は、矩州の大坂追放による談林の失墜、大坂でも起きてきた芭蕉復古の流れに対抗して新たに「談林」を名乗り、淡々一門とは異なる活動を展開していく。この時代は、また俳壇全体が復古に傾いた時期である。復古というと中興期の中心となった芭蕉復古がまず代表的なものだが、享保末から宝暦にかけては、その対象は芭蕉一辺倒ではない。貞門俳人を中心に貞徳、大坂談林俳人を中心に宗因への追慕が見られ、また淡々らは芭蕉と等しく其角を慕った形跡がある。しかし時代が下るにつれ、その対象が芭蕉へと絞られていく。野坡没後、蕉門とは縁遠かった大坂においても、芭蕉を慕う動きがみられる。その代表例として、談林俳人梅門の芭蕉句解『師走嚢』(明和元年)、淡々系の村径らによる『おくのほそ道』の最初の注釈書『おくのほそ道鈔』(宝暦十年)が挙げられる。ここにみられる芭蕉像は、談林の側からの、また淡々ら其角系の側からの「芭蕉」であり、「芭蕉」が様々に理解され、受容されていった様子がうかがわれる。淡々門からも、談林からも、直接中興俳壇の指導者は生まれなかった。しかし、元来蕉門色が薄いとされてきた大坂俳壇でさえ、芭蕉理解への真摯な試みが行なわれていた。そこに表われる着実な「芭蕉」信奉の広まりは、間接的に中興運動を支える下地となっていったのである。