視覚情報処理の初期過程 —網膜内網状層におけるシナプス伝達機構の解析—

松井 広

外界の光情報は、眼球の光学系を介して、網膜に二次元的に投影される。光情報の様々な側面が網膜の段階で処理されていることは、精神物理学的手法や電気生理学的手法等で次々と明らかにされつつある。しかしこのような情報処理が、網膜の神経回路においてどのようにして実現されているのかに関しては未知の部分が多く残されている。本研究は、視覚系における初期情報処理のメカニズムを明らかにする目的で、網膜の神経細胞間で働く作用を、神経科学的手法を用いて検討した。
第一章では、網膜研究の現状を分析し、問題点を指摘した。神経細胞同士はシナプスという特殊な構造をした結合部位において、情報の受け渡しを行なっている。したがってシナプスにおける情報伝達の様式を解明することが、神経回路における情報処理の実態を理解するための第一歩である。本研究では、特定のシナプスを分離して解析するために、二細胞同時記録法や薬理学的手法を適用した。
第二章では、イモリ網膜の双極細胞と神経節細胞に対して同時にホールセル・パッチクランプ法を適用し、両細胞間のグルタミン酸作動性シナプス伝達に関して調べた。実験の結果、(1)双極細胞のCa2+チャネルの開閉に依存してグルタミン酸が伝達物質として放出されること、(2)双極細胞からのグルタミン酸放出は比較的持続的に生じること、(3)双極細胞からのグルタミン酸放出によって神経節細胞の非NMDA型受容体とNMDA型受容体という非常に特性の異なった二種類のグルタミン酸受容体が活性化されることなどが明らかになった。双極細胞からの比較的持続的なグルタミン酸放出に対して、素早くかつ持続的に追随するために両受容体を神経節細胞に用意していることが示唆された。またこれらの実験結果を整合的に説明するために、(4)非NMDA型受容体はグルタミン酸放出部位の直下に存在し、NMDA型受容体はやや離れた位置に存在するというモデルを提案した。神経節細胞に存在するグルタミン酸受容体の種類とその空間的配置が二細胞間のシナプス伝達特性を決定するのに極めて重要であると考えられる。
第三章では、双極細胞から放出されたグルタミン酸がシナプス間隙から除去される仕組みに関して検討した。双極細胞からいったん放出されたグルタミン酸がいつまでもシナプス間隙に残っていては、次の信号をうまく伝えることができない。網膜の双極細胞-神経節細胞間のシナプスにおいて、グルタミン酸トランスポーターによるグルタミン酸の取り込みという能動的過程がグルタミン酸の除去に関与する可能性を検討した。その結果、(1)双極細胞から自発的に少量のグルタミン酸が放出される場合は、グルタミン酸の取り込みを薬理学的に阻害しても神経節細胞の応答波形は変化しなかったので、グルタミン酸は受動的拡散によって速やかに除去されることが明らかになった。一方、(2)双極細胞に脱分極刺激を与えて多量のグルタミン酸が放出される場合は、神経節細胞に生じる応答の非NMDA型ならびにNMDA型受容体を介する成分はともにグルタミン酸取り込み阻害剤投与時に減衰が遅くなったので、グルタミン酸トランスポーターの関与が証明された。グリア細胞にこの種のトランスポーターが大量に存在することが知られている。したがって単純に双極細胞と神経節細胞という二つの胞間の情報伝達のみに注目した場合でも、グリア細胞という第三の細胞が伝達を調節する役割があることが明らかになった。
第四章では、イモリ網膜からマウス網膜に標本を切り替えて実験を行なった。神経回路における情報処理の各過程を分解し、様々な分子・タンパク質が各過程にどのように関与してくるのかを明らかにするためには、分子生物学的研究が進み様々な遺伝子操作が適用されているマウスを被験体とするのが有利であると考えたからである。網膜内網状層におけるシナプス伝達を解析した結果、(1)非NMDA型・NMDA型受容体の局在の違い、(2)グルタミン酸の漏出、(3)非NMDA型受容体の脱感作などに関する仮説が再び支持されることになった。さらに、(4)双極細胞へのGABAC型受容体を介した抑制性フィードバック回路があることが明らかになった。このような抑制性フィードバック回路が双極細胞からのグルタミン酸放出量を調節しており、放出量に応じて漏出の程度や脱感作過程が制御されることが示唆された。
このような一連の実験により、網膜内網状層における双極細胞とそのシナプス後細胞間の情報伝達の様式が明らかになった。本研究によりいったん分解されたシナプス伝達の諸過程をシミュレーション等によって再統合し、視覚情報が細胞活動に符号化される際に、これら複数の過程のそれぞれがどのように関わってくるのかを調べることが今後の課題である。

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